礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『高麗郷由来』の序文(中山久四郎)

2017-09-24 04:21:17 | コラムと名言

◎『高麗郷由来』の序文(中山久四郎)

 昨日の続きである。高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その二回目で、同書の「序文」を紹介してみたい。執筆しているのは、東洋史学者の中山久四郎〈キュウシロウ〉である。

  序 文
 武蔵国に高麗の名あるや、久しく且つ広し。
 武蔵国の高麗郡及び新羅郡、甲斐の巨摩郡、摂津の百済郡、その他諸国に於て朝鮮古代の国名を以て、都邑の名、山川の名、原野の名となすもの少からざることを思へば、内鮮《日本と朝鮮》の歴史的関係、及び内鮮融和共栄の上より見て、一種無限の思慕感懐の念の油然〈ユウゼン〉として起るを禁ずること能はざるなり。
 武蔵の高麗郡につきては、首都東京に近きを以て、之に対する感情は、特に切実にして甚だ深きものあり。
 天智天皇の御世に当り、朝鮮古代の高麗、百済二国の亡ぶるや、其国の上下の人の我国に移住帰化して、つひに王臣となり、日本国民となり、長く王室を護り、国事に尽力せし者多し。
 続日本紀〈ショクニホンギ〉巻三を按ずるに、文武天皇大宝三年(皇紀一三六三年)《西暦七〇三》四月、従五位下〈ジュゴイゲ〉高麗若光〈コマ・ノ・ジャッコウ〉に王姓を賜ふ。ついで元正天皇霊亀二年(皇紀一三七六年)《西暦七一六》、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野、七国在住の高麗人一千七百九十九人を武蔵国に遷して〈ウツシテ〉高麗郡置かれたり。〔続日本紀巻七〕これ武蔵国に多数の高麗人が移住群居して、高麗といふ郡名の新設せられたる始なり。
 当時武蔵国は古代日本の帝都所在の地を去ること数十百里、王化未だ洽からず〈アマネカラズ〉、所謂辺陬〈ヘンスウ〉の地方にして、帝都所在の近畿方面に比して、地は広漠、人は希薄。現時の如き繁栄ならず。
  分けゆけど花の千草のはてもなし
       秋をかぎりの武蔵野の原
  出づるに入るに同じ武蔵野の
       尾花を分くる秋の夜の月
の歌によりて、以て王朝時化の武蔵野の広漠無極の如き状態を想見すべし。斯の〈カクノ〉如き処に多数の高麗人が既に今より一千二百余年前に、其〈ソノ〉開墾拓殖に従事して、以て現代繁栄の基〈モトイ〉をたて源を発せしことは、武蔵国、東京府、埼玉県等を云々する者の必ず注意もし思念もすべきことなり。
 霊亀二年より一千一百八十年を経て、明治二十九年《一八九六》に至り、高麗郡は埼玉県入間郡に併合せられ、もはや郡名としての高麗はなしといへども、高麗を冠する地名の現存する者は猶少からず。川越、飯能〈ハンノウ〉方面に於ては、高麗村あり、高麗本郷あり、高麗川村あり、南高麗村あり、高麗峠あり、高麗川あり、高麗王の墓あり、高麗神社あり、高麗山聖天院あり。いづれも皆高麗郡の史蹟を明に示すものなり。若しそれ高麗姓の史上に著はれたるを挙げんか。高麗福信(後に高倉姓を賜はる)は、孝謙天皇以後の五朝に仕へて、従三位〈ジュサンミ〉に昇り、造宮卿、弾正尹〈ダンジョウイン〉、武蔵守、近江守、但馬守等に歴任し、桓武天皇延暦八年《七八九》、八十一歳を以て薨去せられたるを始めとして、高麗姓の出身にして武蔵其他諸国の地方長官等となりし者少からず。武蔵七党系図を見るに、丹党に高麗五郎経家あり。後三条天皇の延久年間には、高麗泰澄あり。正平、応安、嘉慶年間には、経澄、李澄、義清、希弘ありて、高麗郡を領したり。又武蔵鐙〈ムサシアブミ〉は高麗郡に遷されたる高麗人の造る所なりといひ、「高麗錦紐ときさけて」「韓衣襴【すそ】打交へ〈ウチマジエ〉」といふが歌の詞によりても、東国と高麗人との因縁は決して浅からざるなり。
 武蔵国に近き相模国の大磯地方には高麗寺山ありて、遠人帰化の跡久しく存し、武蔵国より遠く、また武蔵国に移住したる高麗人とは全く別派のものにして、時代も亦近世に下ることなるが、熊本の名儒高本紫溟〈タカモト・シメイ〉(文化十年没、享年七十六)の祖先は李氏朝鮮王庶族にして、帰化の後高麗の高と、日本の本とをとりて高本氏と称せりといふ。又九州の都邑には高麗町の町名あり、社前には高麗犬あり。雅楽には高麗楽あり、また高麗笛あり、陶器には高麗焼あり、畳に高麗縁〈コウライベリ〉あり、芝には高麗芝あり、俳優高麗蔵あり。昭和五年十月十九日(日曜日)の東京中央郵便局(JOAK)の午後の放送の西洋音楽のフルート独奏には高麗貞道君あり。
 高麗といふ名称と日本文化との関係因縁は、実に多種他方面に亘り、深く久しく且つ広しといふべし。
 東国在住の高麗人の本部としての高麗郡(今は埼玉県入間郡)の高麗村の名族高麗氏は、高麗王若光以来の旧家にして、霊亀旭以来、世々絶えずして、今や既に一千二百余年の久しきに至る。祖先以来、功徳の世に立ち人に存すること、以て見るべきなり。当主高麗興丸君及び其子明津、博茂二君とは年来の交誼あり。今般同家は、祖先以来の高麗史伝を修成し、また高麗氏系図を編輯して、以て先徳を表し、且つ後世に伝へんとす。其本を思ひ祖を懐ふの至誠は以て追遠帰徳の美挙として人を感ぜしめ又内鮮融和の史伝と時務にも補益することも、亦大なりといふべし。
 余深く高麗の史伝に対して思を致し、且つ今高麗氏の美挙に感ずる所あり。乃ち蕪陋〈ブロウ〉を顧みず、平生〈ヘイゼイ〉所思〈オモウトコロ〉を題して以て序文となす。

  皇紀二千五百九十一年
  昭和六年七月    文学博士 中山久四郎

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