礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山路閑古、後藤朝太郎の「死」に言及

2017-09-11 04:46:10 | コラムと名言

◎山路閑古、後藤朝太郎の「死」に言及

 山路閑古著『戦災記』(あけぼの社、一九四六)に、「五月二五日・六日」という文章が載っている。一九四五年(昭和二〇)五月二五日および二六日、B-29の大編隊が東京の山の手を襲った。いわゆる「山の手大空襲」である。筆者の山路閑古とその家族は、この空襲によって家屋と家財を焼かれた。その体験を書いたのが、この文章である。
 本日は、この「五月二五日・六日」を紹介する。ただし、紹介するのは、最初の数ページ分のみ。

  五月二五日・六日
 陸軍記念日の三月十日前後に、下町方面に大空襲があつたから、海軍記念日の五月二十七日を期として今度は山の手がひどくやられるであらうと、一般に取沙汰〈トリザタ〉せられてゐた。所謂流言蜚語〈リュウゲンヒゴ〉で、実戦の推移とは何等関係のないものであつたが、先祖伝来の土地と家屋とを一瞬にして失ふ重大局面に直面すべき人々は、朝【あした】の雲の動きにも、夕【ゆふべ】の風の咡き〈ササヤキ〉にも、啻【ただ】ならぬ予感を感じるのだつた。
 自分は、先に西通程の「私信」(第十号)を認め〈シタタメ〉、知友の間に頒布して、それとなく訣別の意を表したが、全国の知友からは、それに応じて極めて感激的な所感を贈られた。そこで又記念の為、それらの書翰を一括して、更に六十部程の印刷物を作成した。(「私信」第十一号)
「私信」といふ冊子は、自分から発する私信や、諸国から寄せられる自分宛の私信を集めて一巻となし、自分で謄写版の原紙に書き込み、自分でこれを印刷して、略々〈ホボ〉自筆書状と同じ形式、同じ労力を以つて発送する印刷物であつた。別に自刊の雑誌も持つて居り、寄稿依頼の雑誌もあり、又単行本の刊行も意の侭である今日の自分の状況に於ては、必ずしも自ら謄写版などをいぢる必要はなく、むしろその暇はないのだけれども、どうもこれをやらないと他の仕事も渉らない。所謂病膏盲に入つた道楽であるので、空爆が迫れば迫る程、こゝを先途〈センド〉と謄写版にかぢりついた形であつた。
 この謄写版道楽といふ奴は、自分が高等学校にゐた頃やり始めたことで、至つて気分の若々しいものである。鬢髪〈ビンパツ〉に霜を置くこの頃になつて、やはり同じ気分でこれをやつてゐる。
「春信【しゆんしん】」とか「山梔【くちなし】」とか「私信【ししん】」とか、冊子の標題はいろいろの事情で変つたが、三十年を通じて受け取る人は殆ど変つてゐない。まことに旧友に送るところの書である。而もこの空襲時になると、一信一信、一冊一冊が宛ら〈サナガラ〉にして生形見【いきがたみ】であつた。
 生形見と云へば、ひとり自分ばかりでなく、帝都に残る人、地方に住む人の別なく、少くも戦局の見通しのつく知識人は、それとなくこの種の記念物の贈答をなしてゐたやうである。戦争に勝つも負けるも、すでに旧日本の面影は保たれ得ないであらうことは、何人にも察せられた。さうした破極を前途に控へ、又空襲に依る惨害が目前に於て必至であつて、こゝに家財が、又生命が遺憾なく清算せられる。殊に自分の如き防火挺身隊員は、軍務応召者と同じやうな、生存に関する或る決意さへ要求されてゐるのであつた。
 とまれ、五月二十五日の夜、自分は六十通の「私信」第十一号を完成しその中の二部を二人の子供に与へた。今までそんなものを子供に与へたことはなかつたのだが、その時は偶然さうだつた。すると子供はそれを大事に教科書の間に挿んで防空壕の奥に隠した。その二部が焼けずに残つた訳で、「明治天皇」といふ短篇はその中に記載されてゐた。
「私信」の仕事が終つた後は、自分はいつもと同じやうに、書見をして居つた。その書物は、後藤朝太郎〈アサタロウ〉翁から、数日前、生形見として贈られた「色蕉翁真蹟図録」であつた。翁はやがて、六十五歳を一期〈イチゴ〉として、略々戦災死に近い非業の最期を遂げられたので、それは文字通り生形見となつた。
 この翁は人も知るやうに、熱心な平和論者で、殊に日支親善に尽した功労は大きかつた。一度は軍部の忌諱〈キキ〉に触れて獄に繋がれ、爾来言説は圧迫を受けて、開口、執筆の自由すら失はれてゐた。自分は何とかして翁の説を天下に通ぜんと思ひ、その原稿を乞ひ得て雑誌に載せ、書状はつとめて「私信」に掲げたりした。
 翁は文も書も巧みであつた。自分は性癖として、大家の書を手に入れて楽しむといふことをしないものだが、翁には好んで小説の題辞などを書いて貰つた。長篇小説の「残花帰花」には「天下之奇書」と記され、「後雪抄」には「海内一本」と記されてゐる。何れも亀甲文字の見事な手蹟で、料紙が赤であつたので、印は貼紙をしてその上に捺すといふやうな、細かい心遣ひが加へられてある。前書は人に与へ、後書は手許に置いて惜しくも焼失した。
 午後十時頃警戒警報が発令せられ、これは間もなく空襲警報となつた。自分は遮蔽した電灯の下で静かに巻脚絆〈マキキャハン〉を締め直し、鉄兜を被つた。【以下、略】

 この文章の本領は、実はこのあと、空襲の惨状を描いた部分にある。しかし、文章の初めのほうのみを紹介したのは、ここに「後藤朝太郎」という人名が出てくるからである。
 後藤朝太郎については、このブログでも、何度かとりあげたことがある(「後藤朝太郎、東急東横線に轢かれ死亡」2016・1・22、など)。劉家鑫さんの研究によれば(「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」、『環日本海研究年報』第4号、一九九七年三月)、後藤朝太郎は、日中戦争勃発後、「特高警察の尾行、憲兵の逮捕、大学講義内容の検閲、巣鴨拘置所入り」といった迫害を受け、敗戦直前の一九四五年(昭和二〇)年八月九日午後八時半、東急東横線都立高校駅北側の踏切で、「轢死を装い暗殺」されたという。
 山路閑古は、上記の文章において、晩年の後藤朝太郎について言及している。後藤が「軍部の忌諱に触れて獄に繋がれ」、「執筆の自由すら失はれて」いて、「戦災死に近い非業の最期を遂げられた」と述べている。閑古は、後藤朝太郎が「暗殺」された事実を、あるいは知っていたのかもしれない。
 いずれにせよ、後藤朝太郎の死から、それほど間をおかずに、その死について触れた文章というのは、そうないのではないかと思って、紹介した次第である。

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