礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木畑壽信氏を偲んで・その3(青木茂雄)

2017-09-29 02:59:06 | コラムと名言

◎木畑壽信氏を偲んで・その3(青木茂雄)

 昨日未明、青木茂雄氏の「木畑壽信氏を偲んで」の三回目の原稿が届いた。本日は、これを紹介する。以下、すべて、青木氏の文章である。

木畑壽信氏を偲んで(3) 青木茂雄
 ―僕の思考は倫理的である(木畑壽信)―

 1982年冬に『ことがら』2号が発刊の運びとなった。「70年代の言語と経験」というタイトルで特集し、初めて座談会形式の文章を掲載した。座談会の参加者は青木の外に、 木畑壽信、草野尚詩、黒須仁、小阪修平、竹田青嗣、西研、万本学の各氏。2回に分けて座談を行い(と言っても、実際は鍋料理をつつきながらアルコール入りの雑談風だったように記憶している)、それをあとからテープ起こしたものであって、座談というよりはまとまりのない放談のようなものであったと、当時は思っていた。しかし、35年たった現在読み返してみると、当時の時代状況が良く現れていて、自分で言うのも変だが、大変に面白く読んだ。時代の資料としても貴重である。
その座談記事の最後に、小阪修平と木畑壽信がそれぞれに文章を寄せているが、これほどまでに折り合わないと言う文章も珍しい。座談の中ではそれなりに話が通じているのだが、文章にするとここまで違ってしまう。
 そのことと呼応するようにして、2号の冒頭には小阪修平による木畑の「世界との対話」批評が書かれた。「『世界との対話』との対話」という短い文章である。そのうちの一部を紹介する。

「(本歌)僕の思考作用は倫理的である。だから行為に対する決定の基準が倫理的である。(反歌)僕の思考作用は非倫理的である。だから、行為に対する決定の基準に倫理を持ち込まない。
[注]ひっきょう、観念とは自分の観念にすぎぬ。…… ただ、普遍的と称される論理が、しばしば自分の観念に酔っているだけにすぎぬ、というのが、私たちが抜かねばならぬ観念の錯視だと指摘しているだけのことが。若いころ人はしばしば自分の観念に酔う。かくいう私もそうであった。だからそこには、むしろ、観念がいかにわれわれの存在に根深いものであるかが、現れている。私もまた私の観念をおろそかにできぬ。ただ、そこには倫理はないのである。倫理という錯視しかない。…
 倫理ということばについていえば、私は倫理は、経験によって強いられるものだと思う。私の裡に棲む死者たちが、私に倫理のかたちを教える。……」

明快な論理である。理がどちらの側にあるかは言うまでもないであろう。この文章を読んで、木畑氏は反論するわけでもなく、「批評してもらったことはありがたいのだが…」と短く言っただけだった。論争とはならず、すれ違っただけであった。そう、『ことがら』では議論はあったが論争とはならず、それがしだいに「同床異夢」となり、4年後には解散した。
 さて、2号からは小阪修平の「制度論」の連載が本格化した。連載2回目で「実践論」として、カントの『実践理性批判』の批判を「カントにおける《非在》」として展開した。 私は当時も今も狭義の哲学には不案内かつ不得手であり、『ことがら』の内外で行われていた哲学風の議論は私には疎遠であった。私には「制度論」は当時は良く理解できず、というよりは最初からちゃんとは読まなかったし、読めなかった。ところが、35年経ってあらためて読み始めてみると、当時の小阪修平の構えの大きさがわかるようになった。35年経って、ようやく彼と同じ視界が見えてきたと思っている(「制度論」に限らず、『ことがら』1~8号に掲載された彼の文章はどれも手抜きがなく、水準に達しており、今の時点にたっても読み返す値打ちがある)。おそらく、彼は90年代以降「難解な哲学を水準を落とさずに平易に解く」通常は啓蒙的と言われる文章の書き手として著名であり、それはそれで貴重なものだが、彼の本来の仕事は「制度論」にある。おそらく、老境での仕事として「制度論」の完成を残していたのだろう。小阪修平氏が10年前に還暦そこそこで他界したことは、かえすがえすも残念である。小坂氏ほど《老境》がふさわしい人物はいない、と思っていたのであるが…。10年前の氏の追悼集会では彼の最初の単行本であり三島由紀夫論である『非在の海』が代表的著書として紹介されたが、《非在》という言葉がもしかしたら彼の一番のキーワードなのかもしれない……。
 ところで、『ことがら』の同人ではなかったが、座談に参加するか文章を寄稿したのは、竹田青嗣氏のほかに、作家の笠井潔氏、評論家の小浜逸郎氏、政治思想家の長崎浩氏などである。小浜逸郎氏は「小濱逸郎」として横浜市の教育委員を1期勤め、どういうわけか保守反動派の教育委員長のもとにあって自由社、育鵬社などの問題のある「つくる会」系中学校歴史・公民教科書の「採択」のためにその手足となって奔走した。そのことは消されぬ事実として残っている(2005年8月の横浜市教育委員会の議事録を参照のこと)。「君子は豹変」したのか、それとも元々そうだったのか。
『ことがら』は8号までつづいたが、4号以降は編集担当が輪番された。号を重ねるごとに編集担当者の方針(嗜好)により体裁ががらっと変わるようになった。とくに6号以降は別雑誌のような体裁となった。唯一最初から変わらなかったのが「ことがら」のロゴであったが、これも7号以降変わった。「書きたいように書き、作りたいようにつくる」が『ことがら』の方針であった、つまり恣意性(指向性≒嗜好性)の解放である。
 木畑氏が担当したのは4号、7号だったが、とくに7号には彼の当時の全てが凝縮して表された。表紙のデザインから、目次のレイアウト、各頁の文字の配置まで、すべてをゆるがせにしないもの、として雑誌にした。あまりに彼が細かいことにまでこだわるので私は言った。そんな形式的なことなどどうでもよいじゃないか。スタイルなどは二の次だ、大事なのは内容だ…。それに対して彼が大まじめで答えて言うには、いや形式やスタイルにこそ思想は現れるものだ。このスタイルが僕の思想表現だ…。
 これで木畑氏の人となりが解った気になった。思想とはスタイル、すなわち装いなのだ、と。少なくとも、私とは違う、この人はまったく別の価値観で動いている、と思った。 (つづく)

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