礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高句麗王族なるが故にコキシの姓を賜った

2017-09-26 04:46:11 | コラムと名言

◎高句麗王族なるが故にコキシの姓を賜った

 高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その四回目。本日は、昨日に引き続き、「高麗郷由来」を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行して次のように続く。

 国土を蹂躙された高句麗王族とその遺臣とが、難を避けて日本に来た事は、従来の関係から見て、極めて自然の事である。高句麗の貴賤が続々と海を渡って我国に亡命し来つたことについて、当時の史書には、何等記す所はないが、それは、書紀天武天皇十四年《六八五》二月の条に「丁丑朔庚辰大唐人百済人高麗人并百四十七人賜爵位」とあり、同じく
書紀持統天皇元年《六八七》の条に「三月乙丑朔己卯以投化高麗五十六人居于常陸国賦田受稟使安生業」と見え、更にまた続日本紀元正天皇の霊亀二年《七一六》五月の条には「辛卯以駿河甲斐相模上総下総常陸下野七国高麗人千七百九十九人遷于武蔵国置高麗郡焉」と明記されてあることによつて、十分に推知されるであらう。
 按ずるに、亡命高句麗人は、来朝当初に於ては各地に分属せしめられて居たものであらうが、後になつて、寧ろ之を一地方に聚落せしむることが、彼等を遇する適当なる道であり、また彼等を慰むる所以でもあると考へられ、更に又、未開拓の茫漠たる大武蔵野を、彼等に開拓して貰ふことが、最も策の得たるものと考へられたのであらう。かくして新に置かれたのが高麗郡であつた。そして此の高麗郡に移された高句麗人の首長となって彼等を統率したのが、続日本紀文武天皇大宝三年《七〇三》四月の条に「乙未従五位下高麗若光賜王【こきし】姓」とある高麗王若光その人であつたのである。高麗王若光に関する文献としては、右続日本紀と高麗氏系図との外に徴すべきものは無いが、伝説によれば、若光の故国を去って皇国に投化するや、一路東海を指し、遠江灘より更に東して伊豆の海を過ぎり〈ヨギリ〉、相模湾に入つて大磯に上陸した。さうして邸宅を化粧【けはひ】坂から花水橋に至る大磯村高麗の地に営んで、其処に留まり住んだが、間も無く我が朝廷より従五位下に叙せられ、次いで大宝三年には王【こきし】の姓を賜はつた。ここに謂ふ「姓」は、鎌足〈カマタリ〉に於ける藤原、秀吉に於ける豊臣等の謂はゆる苗氏とは其の性質を異にし、臣〈オミ〉、連〈ムラジ〉、朝臣〈アソン〉、真人〈マヒト〉等と同じき謂はゆるかばねの姓であって、若光が高句麗王族なるが故に、特に王【こきし】の姓を賜はつたものと思はれる。「こきし」は王を意味する朝鮮語である。さるほどに若光が王の姓を賜はつてから十四年目の霊亀二年丙辰に至り、駿、甲、相、両総、常、野、七国在住の高句麗人に對して、武蔵野の一部を賜ふ旨の優詔が降つた。同時に若光は高麗の郡令に任ぜられたので、やがて大磯を去つて武蔵高麗郡に赴いたが、その後も大磯の国人等は、長く王の徳を慕ひ、中峯の顛〈イタダキ〉に高来〈タカク〉神社上の宮を齋き〈イツキ〉、又その麓には下の宮を建てて高麗王の霊を祀つた。そして隔年七月の大祭には、飾船二艘を沖に出して、鰒【あはび】採りに鰒を採らしめ、それを船中で調理して神前に供へ、舟子たちは祝歌を唱へて式を執り行ひ、王の高徳を欽仰〈キンギョウ〉したといふことである。舟子の唱へる祝歌は次ぎの如きものであつた。
 抑々権現丸の由来を悉く尋ぬれば、応神天皇の十六代の御時より、俄に海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遥かに沖を見てあれば、唐船急ぎ八の帆を上げ、大磯の方へ棹をとり、走り寄るよと見るうちに、程なく汀〈ミギワ〉に船は着き、浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも、翁一人立ち出でて、櫓に登り声をあげ、汝等それにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越〈モロコシ〉の高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て、大日本に志し、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守穫となり、子孫繁昌と守るべし。あらりありがたやと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上らせ給ふ。御代よりも権現様を載せ奉りし船なれば、権現丸とはこれをいふなれよ。ソウリヤヤンヤイヤン。
 高麗王は今もなほ大磯の里人に崇敬され、高来神社の祭典は、古式によつて盛大に行はれて居るのである。【以下、次回】

 文中に、「若光が高句麗王族なるが故に、特に王【こきし】の姓を賜はつた。「こきし」は王を意味する朝鮮語である。」(下線)という部分がある(【こきし】は原ルビ)。
 これについて、インターネット上で情報を求めてみると、金井孝利編『韓国時代劇・歴史用語事典』(学研パブリッシング、二〇一三)の「鞬吉支 コンギルチ」の項が参照できた。それによれば、コンギルチは、百済において、一般庶民による王の称号で、コニキシ、コンキシと発音されることもあったらしい。
 高句麗の王族に対して、当時の朝廷は、百済における一般庶民による王の称号「コキシ」を賜ったのだと、一応、理解できる。このことについては、いろいろな説明が可能だと思ったが、機会を改める。

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コメント (1)
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