◎いかなる天皇制の理論分析にも私は満足できない(針生誠吉)
『ジュリスト』一九七七年五月臨時増刊(通巻六三八号)、「日本国憲法―30年の軌跡と展望」の紹介を続ける。本日は、針生誠吉(はりう・せいきち)氏の「国民主権と天皇制」という論文を紹介したい。
一 問題の焦点
論争史の軌跡を回願することは、問題の焦点を明らかにし、問題の展望を明らかにすることなしにはありえない。憲法三〇年回顧の流行がともすれば、戦後史葬送に終りがちなのは深く警戒されねばならない。
一九七七年年頭、ロング・レインジの展望からみれば、明治以来一貫して経済成長と近・現代化の道を驀進し続けてきた一つの時代は終ろうとしている。しかし短距離の展望としては、中産階級化の意識の進行するなかで、少なくとも表面的には、象徴天皇制は、二〇世紀における最も完成した君主制ともいえる安定性を加えつつあり、動揺の気配は感じられない。国民主権の現代国家としての日本の政治社会の激動の深層にある、このアモルフ(無定型)にして堅固な地殻は何か。それは解明されたかに見えて、前人未踏の暗黒大陸ともいうべき日本の社会科学の盲点を形成している。
保守独占支紀の終末と多党化現象は、国民自身の中道革新への選択の幅を拡大したといわれている。国民主権のあらたな展望が説かれるなかで、原理的には全く相反する天皇制は、消極的ではあるがはば広く根深い国民の支持力を増大させ、保守的安定装置として、かけがえのない役割を果しつつある。憲法の三〇年をふりかえるならば、戦後天皇制の危機は、むしろファナティックな天皇制復活が説かれた、いわゆる逆コース・憲法改正、天皇元首化論の時期にあったと、逆説的に、いえないであろうか。極右の主張のように、この時期に天皇の政治的・軍事的機能を強化し、一部右翼の売国的腐敗部分との密着を国民に印象づけていたならば、ロッキード事件、今後のあいつぐ右翼保守層の不祥事件の暴露の波のなかで、象徴天皇制は相当の打撃をさえ受けたであろう。保守的安定装置としての天皇制の存在意義は、明治憲法におけるごとく、神聖不可侵の元首としての政治的・軍事的アパラートにあるのでないことはいうまでもない。政治的権能の強化とは逆に、日本国憲法の政治的無権能性のゆえに、天皇制は動揺する政治選択のなかで、今後も安定性を強化させうるのである。
明治憲法下においてすら、支配層にとっての天皇制的体質のメリットは、むしろ、特殊日本的近代をおし進めるために、あらゆる近代思想と技術を柔軟に受けいれた点にある。たとえば、御真影への偶像崇拝を受け入れつつ発展した日本キリスト教に対するごとく、その本質を失わせながらこれを体制内に受容、包摂し、かえって明治体制の近代化・強化に役立たせえた、その体質にある。伊藤博文のすぐれた点は、憲法義解の編集からさえ、ファナティックな神権学派の穂積〔八束〕をしりぞけた点にあり、福沢諭吉のごときは「保守論者、良学者流の諸士は忠を尽さんと欲して之を尽する法を知らず」(帝室論)と嘲笑すらしている。昭和の一五年戦争におけるファシスト・新官僚、軍部の無能さは、天皇制については神がかり的に硬直するばかりで包摂力を枯渇させ、自滅していった点にある。対米総力戦を遂行した新官僚、青年将校の有能性への評価は、昭和史から一掃すべきである。それは今日の新しい特殊日本型ファシズムへの幻想をもつ若手政治家・官僚・理論家についても同様である。
今日、近代立憲主義憲法の立場から、国民主権と天皇制を問題とする場合、国民主権の原理は、近代市民革命の所産であるから、市民階級への国家権力の帰属関係を抜きにしては考えられない。今後の連合政権のなかの象徴天皇制の位置づけを考える場合、天皇制の即時廃止はほとんど問題とならない以上、どのような位置づけのなかに、逆包摂し統一戦線のなかに天皇制を位置づけるかは、革新政党の課題となってゆくであろう。天皇制それ自体は今日統治構造においては重要な意味を持たない。しかし日本社会のトータルな変革を理論化する場合、幾多の特殊日本的条件を分析する重要な体質と病理をそこからさぐることができる。私は今日なおいかなる天皇制の理論分析にも完全に満足することはできない。右翼、新左翼の理論も的なき所に矢を射る感が深い。既に故人となられた、和辻〔哲郎〕・佐々木〔惣一〕、尾高〔朝雄〕・宮沢〔俊義〕諸先生の国民主権と天皇制の論争も、このような問題点とかかわらせて見れば、ほとんど処女地の開拓にひとしい無限の課題を憲法科学に課している。輸入法学・輸入社会科学の限界が語られている今日、問題は根本的かつ重大である。それは、日本の新しい社会科学を創造する展望もつらなってくる。ここでは論争の若干の考察に止め、長期的展望のもとに、ゆっくり研究を進めたい。【以下、次回】