◎木更津に向かう途中、燃料が切れてしまった(須藤大尉)
『日本憲兵正史』の第四編第三章「憲兵の服務」から、「日本降伏特使機の不時着」という記事を紹介している。本日は、その二回目。
今回、紹介する部分は、上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)に依拠しているらしく、上原本にある誤りが、そのまま踏襲されている。その誤っている部分には、下線を引いておいた。
こうして、マッカーサー司令部と会談を終えた河辺全権団は、八月二十日に前記各文書を受領してマニラを出発した。帰路、台湾の台北飛行場で燃料を補袷し、重苦しい気持ちを胸に抱いて一路帰国の途に着いた。
その八月二十日の夕刻、浜松憲兵分隊では、浜松飛行場司令部から次のような電話を受けた。
「川辺虎四郎中将以下の降伏特使の航空機が、浜松海岸に不時着し、只今から救援に赴くから、憲兵も同乗して欲しい」
要請を受けた浜松憲兵分隊長上原文雄大尉は、事の重大さに思わず愕然とした。
やがて、飛行場司令部から差回しの大型軍用自動軍に同乗した上原大尉が、浜松よりやや東京寄りの海岸に急行すると、海岸に近く藺草【いぐさ】を一面に干してある畑の上に、問題の輸送機がふんわりとした感じで不時着していた。
現場附近に到着した大型自動車に気付いた特使一行の中から、一人の将校が駆寄って来た。この将校が操縦士の須藤〔傳〕大尉であった。須藤大尉は上原大尉に、
「マニラから台北飛行場に飛び、給油をすませて木更津に向かう途中、どうしたわけか燃料が切れてしまったので、やむなく浜松飛行場に着陸しようと方向を変えたが、海岸線に着いたところで燃料が尽きてしまった。そこで何とか安全な場所をと思って沼地を探したが、見当たらず、思いきって柔かい藺草の上に降りた。幸い航空機の損傷も軽く、同乗者全員の生命にも異常なく、そこに集っている」
と不時着機を指して報告した。
上原大尉が機体の側に行くと、なるほどと感心した。藺草は畳表〈タタミオモテ〉の材料になるもので、泥をつけ藺草が畑一面に拡げて干してあった。その上に着陸したので、航空機の受けた衝撃も思いのほか少なく、被害は人も機も殆どなかったのである。さすがは海軍屈指の名手須藤大尉ならではと感心したが、実は感心している暇などはなかった。
まず、特使一行を見ると、通訳官が着陸のショックで軽い裂傷を負い、仮包帯の白い鉢巻をしていたが、あとは川辺中将以下全員無事であった。そこで上原大尉は川辺中将以下を大型自動軍に収容して、浜松教導飛行団(元の浜松飛行学校)の将校宿舎に案内して休息させ、負傷者の手当てと食事の用意をさせた。しかし、何よりもこの事実を軍中央部へ連絡報告しなければならない。そこで上原大尉は須藤大尉を同道のうえ、軍用自動軍で浜松市内の中央電話局に急行した。
宿直員を叩き起こし、東京への電話をつなぐことを要請すると、折から通信線の東海道線は故障中で、富山か長野経由でなければ通じないという。
「とにかく、一刻でも早く通じればいいと上原大尉がいうと、しばらくして海軍省に通じた。上原・須藤両大尉にとって、一秒が一時間にも思えた待時間であった。心せく須藤大尉が電話口に出て事故の状況を報告し、明朝、出迎えの航空機を浜松飛行場までよこすように依頼した。この頃、東海道線はすでに爆撃で分断されて不通であり、鉄道当局に要請しても臨時夜行列軍などは思いもよらなかった。
ところが海軍省側は、特使一行から天皇への状況言上を依頼して、電話はそのまま宮内省に回された。ここで電話は須藤大尉から上原大尉に代わった。
電話に出た宮内省関係者に、上原大尉が侍従武官長室を呼んでもらうと、しばらく時間がかかった。やがて軍人らしい声で、
「侍従武官に何の用事ですか?」
と問うので、上原大尉は宮内省内もまだ混迷の極にあることを推察し、
「私は浜松憲兵分隊長上原大尉であるが、川辺中将から侍従武官長を経て、上聞〈ジョウブン〉に達しなければならない重要な用件があるので、至急侍従武官室に取次いで欲しい」
といつた。しかし、宮中そのものも当時はかなり動揺していたらしく、いつものようにテキパキと物事がすすまない。やがて、
「侍従武官室の者ですが」
という重味のある声に、上原大尉は心の動揺を落着かせるように、
「本夕、川辺中将の一行がフィリピンからの帰途、浜松飛行場に不時着したが、一行は幸い全員無事であります。このことを至急陛下に言上〈ゴンジョウ〉していただきたいと、川辺中将からの伝言であります」
と報告した。
侍従武官室との連絡が終ると、上原大尉はさらに陸軍省に電話を回わしてもらったが、陸軍省はどうしても電話が通じない。そこで、こんどは憲兵司令部に回し、当直将校にこれまでの状況を報告し、司令部から陸軍省へ報告してもらうように依頼して、電話連絡を終えた。【以下、次回】
文中、「台湾の台北飛行場で燃料を補袷し」とあるのは、「伊江島で給油済みの一式陸上攻撃機に乗り換え」の誤りである。なお、全権団一行は、伊江島・マニラ間は、米軍の輸送機で往復している(昨日のコラム参照)。
「川辺虎四郎中将」とあるのは、「河辺虎四郎中将」の誤り。「浜松海岸」は、「鮫島海岸」(磐田郡長野村鮫島)とすべきところであろう。「藺草を一面に干してある畑の上に」とあるのは、「海岸の波打ち際に」の誤りである。
「通訳官」とあるのは、「外務省調査局長」とすべきところである。なお、この負傷した外務省調査局長は、のちに第三次吉田内閣の外務大臣となった岡崎勝男である。
「事故の状況を」とあるのは、「事故の状況、および連合軍進駐の日程等を」とすべきところである。というのは、この段階で、まず政府中枢に伝えなければならなかったのは、連合軍進駐の日程、最初に進駐する地点などだったからである。