礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

広島市基町の中国憲兵隊司令部は全滅(1945・8・6)

2020-08-11 00:01:28 | コラムと名言

◎広島市基町の中国憲兵隊司令部は全滅(1945・8・6)

『日本憲兵正史』の紹介を続ける。
 本日、紹介するのは、同書第三編第二章「憲兵の服務」にある「広島及び長崎へ原爆投下と憲兵」という記事である(七三六~七四三ページ)。やや長いので、何回かに分けて紹介する。

  広島及び長崎へ原爆投下と憲兵

一、広島憲兵分隊
 昭和二十年〔一九四五〕七月下旬、広島憲兵分隊の特別協力班が市内各所の倉庫を点検調査した結果、すでに地方に疎開したはずの糧米などを多量に発見した。その在庫量は精米約十二万石、雑穀約二十三万石という厖大なものであった。それに衣料品も若干あった。
 特別協力班長柳田博准尉は、直ちに分隊長田中要治大尉に報告するとともに、早速第二軍総司令部および地方総監部、広島県庁に連絡、各方面の協力を得、約一週間かかって糧米を市外の倉庫に運ぶことができた。
 約三十五万石の穀物を運ぶということは大変な作業である。これは県庁、市庁、軍を挙げての大輸送作戦となった。特別協力班の班長柳田准尉以下、分隊は総力を挙げて輸送の指導に当たった。敵の空襲激化に、万一これだけの糧米を焼失したら莫大な損害であった。食糧難の折から掛替えのない重要な食糧である。このことは広島憲兵分隊の殊勲といっていい。何故かというと、輸送が終ったのが八月四日であったことだ。柳田准尉は隊員の労をねぎらい、翌八月五日(日曜日)は当直以外を全員休日とした。
 八月六日午前八時、広島憲兵分隊は全員営庭に集合して、分隊長田中要治大尉の朝礼と点呼を受けた。この日は点呼後に分隊長の学科が予定されていたのた〔ママ〕、午前八時十分過ぎ頃隊員は全員建物の中に入り始めた。そして原爆投下という運命の午前八時十五分を迎えたのである。世界初の原子爆弾によって、広島市内は一瞬にして廃墟と化した。
【一行アキ】
 昭和二十年三月、本土決戦に備えて内地憲兵隊の大拡張が行われ、従来の広島憲兵隊管轄地区に、中国憲兵隊司令部が設置され、基町〈モトマチ〉の広島憲兵隊本部庁舎に隊司令部を置き、隊司令官に、瀬川寛大佐が任命された。広島憲兵分隊は、市内猫屋町〈ネコヤチョウ〉二番地の私立光道小学校を借りて移転していた。小学校は学童疎開によって全部空校舎となっていた。しかし、この学校が鉄筋コンクリート建であったことが後に幸いする。
 さて、原爆投下後の状況であるが、爆心地から直径一、五〇〇メートル以内は一瞬にして全焼している。したがって、市内立町〈タテマチ〉にあった〔ママ〕中国憲兵隊司令部は、司令官瀬川大佐以下約七十名は全滅、一部建物からはい出た者もあったが後に死亡している。助かったのは当日非番であった数名だけである。
 次に広島憲兵分隊であるが、当時、分隊には分隊長以下七十五名の憲兵と、一二五名の補助憲兵が合計二〇〇名在隊していた。さらに同校内には、協力機関である広島特別機動隊の補助憲兵三五〇名も同席していたのである。ところが、原爆によって分隊長田中要治大尉以下約半数が死亡した。
 広島憲兵分隊は爆心地から約六〇〇メートルの地点に在ったが、建物が鉄筋コンクリートで、しかも爆心地の方向に窓がなかったことが幸いであった。【以下、次回】

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