◎月末には占領軍が三浦半島に上陸する(随行の某参謀)
『日本憲兵正史』の第四編第三章「憲兵の服務」から、「日本降伏特使機の不時着」という記事を紹介している。本日は、その三回目。
今回、紹介する部分も、上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)に依拠しているらしく、上原本にある誤りが、そのまま踏襲されている。その誤っている部分には、下線を引いておいた。
一応東京との連絡をすませて、上原〔文雄〕大尉と須藤〔傳〕大尉はまずはほっとしたが、まだ安心できなかった。降伏反対の軍人や右翼に不時着の事実が洩れたらば、川辺特使一行が危険であった。上原大尉は須藤大尉とともに直ちに浜松飛行場へ戻って、川辺中将に東京への電話連絡の旨を復命した。川辺中将以下の関係者が、ほっと表情に安堵の色をみせ感謝したのはいうまでもない。
この夜、特使一行は寝ることもなく、一同懸命に降伏文書の翻訳をした。上原大尉は浜松憲兵分隊から呼んだ憲兵に、徹夜で一行の警護に当たらせた。全権団も憲兵もともに一睡もできなかったのである。
深夜、特使一行の翻訳作業はつづいていた。と、随行のある参謀の一人が、小用で廊下に出て来たので、上原大尉はお茶を出して労を慰め、降伏条件を尋ねた。上原大尉も軍人である以上、事実上の無条件降伏がどんなに厳しいものであるか、想像はできても、経験がないので具体的な条件はわからない。しかし、気になるのは当然であったろう。
「想像以上に厳しいものであるぞ、月末には占領軍が三浦半島に上陸する」
と参謀は沈痛な表情で教えてくれた。上原大尉も思いを日本の将来にはせ、思わず暗澹たるたる気持になった。
翌朝、まだ暗いうちから特使一行も上原大尉も迎えの航空機を待ったが、夜が明けかかったというのに、航空機も来なければ東京からの連絡もなかった。そこで上原大尉が飛行場司令部、浜松教導飛行師団の関係者と相談すると、幸い福井県の三国基地から戻っていた重爆機が、一機完全に整備されているのがあったため、特使一行をそれで立川基地まで空輪することに決定した。【以下、次回】
文中、「川辺特使」とあるのは、「河辺特使」(河辺虎四郎中将)の誤り。「福井県の三国基地から」とあるのは、「富山から」の誤りと思われる。「完全に整備されている」とあるのは、「修理すれば飛行可能である」とすべきところである。さらに、「立川基地まで」とあるのは、「調布基地まで」の誤りである。
なお、この文章によると、上原大尉に対して、「月末には占領軍が三浦半島に上陸する」などの情報を提供(漏洩)した「参謀」がいたようだが、その名前は示されていない。
上原文雄『ある憲兵の一生』には、この情報を提供した人物は、「随行の中佐」とある。もし中佐だとすれば、該当するのは、寺井義守海軍中佐のみ。ちなみに、岡部英一氏の『緑十字機 決死の飛行』(静岡新聞社、二〇一七年六月)の一六五ページには、「小用のために出てきた寺井義守中佐にお茶をだして」云々とある。