礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『航空少年』誌、B29撃墜の木村定光准尉を取材

2020-08-20 00:17:23 | コラムと名言

◎『航空少年』誌、B29撃墜の木村定光准尉を取材

 先日、某古書展の古書目録を見て、『航空少年』のバックナンバー三冊を入手した。
 そのうちの一冊、昭和十九年(一九四四)七月号には、B29初撃墜に関する記事がいくつも載っており、貴重な史料だと思った。
 本日は、それらの記事のうち、「B29撃墜の勇士を訪ふ」という記事を紹介してみたい。

殊動の〇〇飛行部隊に
 B29撃墜の勇士を訪ふ     航空少年特派記者  加 藤 芝

  一路北九州へ
 「大本営発表(昭和十九年六月十六日八時)
 本十六日二時頃支那方面よりB29及B24廿機内外北九州地方に来襲せり。我が制空部隊は直ちに邀撃〈ヨウゲキ〉し、その数機を撃墜これを撃退せり。我が方の損害は極めて軽微なり。」
といふ発表をきいた記者は、早速B29撃墜の現場を訪ふ〈オトナウ〉べく、とるものもとりあへず鹿児島行の急行列車に飛び乗つた。
 関門トンネルを越えると、汽車は北九州の工業地帯を一直線に走るのである。損害極めて軽微といつても、米空軍自慢のB29とB24 が暴れまはつたあとである。生々しい爆撃のあとがきつと車窓からも見られるであらうなどと想像した私の期待は全く裏切られた。
 火災のあとも、爆弾のあとも全く見ることはできない。敵がねらつたといはれる八幡〈ヤハタ〉の製鉄所はいつもとかはらず溶鉱炉一ぱいに、敵撃滅の鉄を熔かし続けてゐるのであらう。林立する煙突からは、どす黒い煙がもうもうと力強く立昇つてゐる。野も山も美しい初夏の緑におほはれて田圃〈タンボ〉の畔道〈アゼミチ〉のほとりに咲く月見草が、田植に精出すお百姓のかひがひしい姿と共に美しい。
 博多に下車した私は、早速西部軍司令部を訪れて、敵機来襲に際して、わが精強なる制空部隊と鉄壁の民防空陣が全く一つになつてのたくましい防空活動の模様を伺ふとともに、撃墜現場視察についての御指示をいただいた。
 なほ特別の御心づくしによつて〇〇にある敵撃滅の殊動に輝く〇〇飛行部隊を訪れることを許されたのである。
 現地の視祭を終へた私は、〇日早朝、〇〇部隊の、営門をくぐつた。この部隊の部隊長は、本誌でおなじみの航空本部の森正光少佐 と同期の方である。
 衛兵に案内されて、飛行場のピストにいくと、部隊長殿は布張りの椅子にどつかりと腰を下して、今着陸した愛機から走り出た荒鷲 から、演習の情況についての報告をきいてをられた。
 私が隊長殿の前に立つて、来意を告げ、この度の戦果について御礼と御祝とを申し上げると、
「遠いところ御苦労、まあかけたまへ」
と側の椅子を引よせて下さる。そして飛行場にずらりと並べられた新鋭戦闘機を指さされながら、
「これがみな、あの夜活躍した飛行機だ。発動機に一つ敵弾のかすりきずを受けたのがあつたが、あとは全部無傷だつたよ。」 
と満足さうに語られる。
 私は感謝の気持をこめてもい一度、一機一機のたくましい翼を注視した。
「わしの部隊は、御覧の通りの猛訓練だ。実戦と演習との区別はない。だから兵は、今度の戦闘でも非常に楽な気持で戦つたわけだ。みんな目標の大きいのがきたので演習の時より面白かつたといつてゐるよ……。ここにゐるのはみなあの晩の勇士達だ。(ピストの中に居並ぶ飛行服姿のりりしい荒鷲たちを指しながら)小林大尉、佐々大尉、板倉中尉、山下中尉、小林准尉、それから少年飛行兵出身では第一期出の樫出〔勇〕中尉、五期の内田曹長、六期の野辺軍曹をはじめ十三期まで合はせると〇〇名以上ゐる筈だ。何れも一機(騎)当千の猛者揃ひだよ。
 今日も見られる通りの猛訓練だ。訓練のあひまを見て、実戦の模様などを聞くことはいろいろ参考になるだらう。」
とピストの中で勇士達との会話を特にお許し下さつた。
 陸から空へ、空から陸へ!調子のよい発動機の爆音は飛行場をうづめて、見敵必墜の猛訓練はたえまなく続く。
 折からぼーつと霞んだ大空からぐつと機首を下げて鮮やかな着陸をし、演習を終へてピストに帰ったのはB29撃墜の殊勲者、木村准尉である。
 私は安倍部隊長殿のかたはらで功をほこらぬ木村准尉の遠慮勝〈エンリョガチ〉な言葉を通して次のやうな生々しい初陣〈ウイジン〉の体験談を伺つたのである。【以下、次回】

 若干、注釈する。木村准尉のフルネームは木村定光(きむら・さだみつ)、所属は、飛行第四戦隊(山口県小月飛行場)である(インターネット情報による)。
 航空少年特派記者の加藤芝は、一九四四年(昭和一九)六月一六日午前八時の大本営発表を聞き、すぐに北九州へ向かったという。この当時、東京駅発・鹿児島駅行きの急行は、午前8時30発の「1番」列車のみ。おそらく加藤記者は、一七日のこの列車に乗ったのであろう。
 翌一八日午前11時30分、博多駅下車。福岡市城内の西部軍司令部を訪れ、撃墜現場視察の指示を受ける。同時に飛行第四戦隊取材の許可を得たものと思われる。ちなみに、B29の撃墜現場は、若松市浅川の山中であった。一八日午後は、この撃墜現場で、B29の残骸を撮影。加藤記者が下関市小月(おづき)の飛行第四戦隊を訪れ、木村准尉に面会したのは、たぶん、一九日午前中だったと思われる。

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