◎マッカーサー、日本に降伏特使の派遣を命ず(1946・8・16)
一週間ほど前、久しぶりに、『日本憲兵正史』を開いてみた。「繆斌工作」関係の記事があるかどうか、確認したかったからである。ザっと見た限りでは、繆斌工作関係の記事は確認できなかった。
そのかわりに、興味深い記事を、いくつか発見したので、このあとは、しばらく、そうした記事を紹介してゆくことにしたい。
本日、紹介するのは、第四編第三章「憲兵の服務」にある「日本降伏特使機の不時着」という記事である(一一六二~一一六六ページ)。やや長いので、何回かに分けて紹介する。
日本降伏特使機の不時着
昭和二十年〔一九四五〕八月十六日午後四時、大本営は全陸軍海軍に対して停戦命令を発令した。
一方、日本の爾後の交渉の相手となるマッカーサー元帥は、前日の八月十五日、日本のポツダム宣言受諾とともに、日本の降伏を受理する連合国最高司令官に任命されていた。したがって、比島マニラのマッカーサー司令部と東京の日本政府及び大本営の間では、八月十六日午後から、英語による無線通信が直接開始されていたのである。
大本営が最も憂慮したのは、停戦命令の第一線各部隊に対する徹底であった。日本史上前代未聞の降伏という衝撃に、外地各部隊はよく耐え、よく大命を遵奉しきれるかの問題であった。大本営はこの命令の徹底に、内地各部隊が二日、外地各部隊には六日、特にブーゲンビル島の部隊には八日、また、ニューギニア及び比島山中に立籠る各部隊には、約十二日間の日数がかかるものと計算推定した。各個撃破されて、すでに満足な通信機も持たぬ各部隊に、降伏の事実を通達確認させることが、どのように困難なことであるかをよく承知していたのである。大本営はまずこのことを、マッカーサー司令部に理解協力を要請したのであった。
一方、日本政府のポツダム宣言受諾とともに、全日本軍の即時停戦を要求した米国政府は、
「連合国最高司令官の指令する打合せをなすべき、充分の権限を与えられる使者を、直ちに同官の許に派遣すべし」
と通告してきた。
また、マニラのマッカーサー司令部は、
「天皇、日本政府及び日本大本営の名において、降伏条件実施に必要なる諸要求を受理する権限を有する代表者を、マニラに派遣すべし」
と命じてきた。これはいずれも八月十六日午前中に、日本政府及び大本営に通告されたのである。
日本政府及び大本営はこの代表の人選を急ぎ、参謀次長河辺虎四郎〈カワベ・トラシロウ〉中将を首席代表に、随員には外務省調査局長岡崎勝男、海軍少将横山一郎、陸軍少将天野正一〈マサカズ〉らが命ぜられた。
八月十八日、河辺中将は政府より全権委任状を受け、全権団一行十六名は、翌八月十九日の朝、海軍用陸攻機〔一式陸上攻撃機〕で千葉県木更津飛行場を出発した。操縦士は海軍航空の名手須藤〔傳〕大尉であった。一行は途中、沖縄の伊江島〈イエジマ〉において待機中の米軍機に乗替え、同日の夕刻マニラ飛行場に着陸した。
全権団は到着後直ちにサザーランド参謀長に引見されたうえ、連合軍が真先に進駐する地域である、東京湾及び鹿屋〈カノヤ〉両地区の軍事施設及び全俘虜収容所の所在地など、俘虜の情況に関する情報の提出を求められて報告した。
会議は進合軍の日本本土進駐について若干の討議が行われた。翌二十日、会議が再会され、進駐にともなう最高司令官の要求文書、さらに降伏調印後に公布する天皇の布告文、降伏文書及び連合国最高司令官陸海軍一般命令第一号を受領した。全権団は連合軍の平和進駐及び一切の要求を誠実に実行するには、適当な準備期間が必要であることを強調して、約十日間の準備日数を要請したが、マッカーサー側は進駐開始日の予定日八月二十五日を、二十八日に変更したのみであった。さらに、先遣隊の神奈川県厚木飛行場到着を、八月二十六日と指定した。そして大詰の降伏調印日は、八月三十一日の予定とされていた。【以下、次回】