◎でっかいのを二機、具合は好調だ(木村准尉)
『航空少年』一九四四年(昭和一九)七月号から、「B29撃墜の勇士を訪ふ」という記事を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
昨日、紹介した部分のあと、一行あけて次のように続く。
私〔木村定光准尉〕が基地に着陸すると、地上勤務員が、
「戦果はどうですか。」
「飛行機の具合はどうでした。」
と闇の中に闘魂にもえた瞳を輝かして、自分が手塩にかけた愛機の活躍を案じつづけてゐた感情が一時に爆発したやうに走りよつて、口々にたづねるのである。私は地上勤務眞の真心にうたれて胸が一ぱいになつた。
「でつかいのを二機、具合は好調だ。」
と言葉少なく答えて、弾丸と油をたのむと、直ちに別の機に飛び乗つた。
「しつかりたのみますよ」
といふ整備員の声が、発動機の轟音の中から私の胸をうつ。私は整備員の真心に感謝しながら、まつしぐらにもとの決戦場に引きかへした。
決戦の空一ぱいに放射された照空燈の光芒が交叉したなと思ふと確実に敵機を捕へて離さない。一機、二機三機と真白に機体を輝かせてのたうちまはる間を、友軍機が物凄い速力で飛びかひながら喰ひ下つてゐる。
アツ、しめた!
私は思はず叫んだ。光芒の焦点が、ぐーつと下つて、さつと焦点を解いた瞬間、紅連〈グレン〉の焔の一線が大地に向って描かれていく。見事に僚機が討ちとめた敵の巨体の最期である。
敵機は大編隊を組まずに、一機、二機、三機とばらばらになつて数分おきに波のやうにせまつてくるのである。
私は再び照空燈が捕へたB29とおぼしい奴に喰ひ下つた。一撃でと心ははやるが敵もさるものである。逃げよう逃げようと必死になつてゐるのが、はつきりとわかる。私は繰返し繰返しこれに猛攻を加へて、つひに尾部に必中弾をたたきこむことができた。
その時また私は弾丸をうちつくしてゐるのに気づいた。私は傷いた奴の最後を見届けるいとまがなかつた。大急ぎで基地に帰ると、整備員が真心こめて準備しておいてくれた愛機に乗りうつつて三度目の攻撃に舞ひ上つた。
その頃はもう夢中で、ただ敵機につかみかかつた。最後にわたりあつた奴は必中弾に大破したらしい。ふらふらとしながら闇の玄海灘に向つて次第次第に高度をさげて行つた。
敵機の来襲がやんでほつとした時、東の空には下弦の月がかかつてゐた。激闘〇時間であつたが、 私には十分か十五分位のやうにしか思はれなかつた。機首を基地にむけた私の頭に感深く残るのは、やさしい部隊長殿の厳とした地上からの無電指揮のお言葉であつた。私は部隊長殿と同乗して戦つてゐるやうな感じで戦つた。
基地に帰つて、みんな無事な顔を見合はせたときの感激、敵の爆弾による被害が極めて軽微だつたといふ情報に接した時の安心、私は初めての実戦に加はつた者の一人として全く感無量である。
今度の戦果は全く部隊長殿を中心に全隊の協力によつてあがつたのであつて、特別に恩賞をいただいたことは全く勿体ないことだと思つてゐる。
今や米英の反攻作戦は、欧州においては北フランス上陸となり、これと同時に開始された敵米の太平洋中央突破作戦と支那大陸よりする航空進攻作戦が極めて活潑に開始されつつあるのである。
太平洋の敵は物量をたのんで、だんだんと野望を達し、すでに内南洋のサイパン島までもその魔手をのばしてきたのである。
支那においては、零陵、桂林、衡陽をはじめ、広大な地域の到るところに大小無数の飛行場を作り、これに彼等が新鋭を誇るカーチスP40、ノースアメリカンP51、ロツキードP38、リパブリツクP40などの戦闘機を配して、在支皇軍に対し、積極的な攻勢に出てきてゐる。また今度やつてきたボーイングB29やコンソリデーテツドB24などの新鋭機の数を増し、大陸よりのわが本土空襲の機会をねらつてゐるのである。
今度の来襲などは、その小手しらべと見ることができると思ふ。これからもたびたび来襲するであらうことは覚悟しなければならない。今度ぐらゐの打撃で参る米鬼ではないといふことを、われわれははつきりと認識して「敵機来るなら来い」の構へをもつて、技倆をねり、我が無敵戦闘機の偉力を最大限に発揮し米英撃滅のため大いにがんばりたいと思つてゐる。
語り終ると准尉は腕時計をちらつと見て、もう食事の時間ですからといつて、飛行帽を片手に兵舎に帰つて行かれた。勲をほこらぬ日本武士の美しい姿を私はいつまでも見送つた。
木村定光准尉が操縦していた飛行機の機種は、機密とされたようだ。インターネット情報によれば、二式複座戦闘機「屠龍」(とりゅう)だったという。
同じく、インターネット情報によれば、木村定光准尉は、1915年(大正4)8月19日生まれ。1945年(昭和20)3月27日、武功章授与。同年5月8日、少尉に特進。同年7月14日に戦死し、中尉に特進したという(カモメとウツボのメクルメク戦史対談)。