礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

作者の気持ちはどう書かれているか(尾崎光弘)

2020-08-18 00:07:53 | コラムと名言

◎作者の気持ちはどう書かれているか(尾崎光弘)

 今月一三日に、尾崎光弘さんの拙著に対する書評を掲載しました。その後、尾崎さんから、次のような文章をいただきましたので、本日は、これを紹介します。
 前回の書評の最後のほうで尾崎さんは、「読んでいるうちに静かに沁みてくるような書き方をするにはどう書けばいいのか。ここが知りたいのです。」と書かれていました。今回の尾崎さんの文章は、この問題について、吉本隆明の方法を用いて、「謎解き」をおこなったものと拝察しました。
 以下、すべて尾崎さんの文章。文中、一行アキは、原文のまま。

     作者の気持ちはどう書かれているか
──山本有三「ミタカの思い出」(三鷹市報 1965)──
                        尾崎 光弘
はじめに
 文章術の基本は自分の気持ちを表現することだ、というならば、書き手は自分の気持をどう書いているのかを学ぶ必要があるのではないか。名文を学ぶ対象にするならば、名文たるゆえんがどこにどう書かれているのかを学ぶ必要がある。こう思ったのが、先だってのような疑問になりました。「名文たるゆえんが名文のどこにどう書かれているのか」を調べる方法について、私はおひと方の方法しか知りません。ご著書の第22講「短歌にとって美とはなにか」で取り上げておられた、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)の解説を書いた吉本隆明さんの方法です。「解説」ではこう説かれていました。
 ≪作者が、意識せずにつかっているめまぐるしい認識の<転換>が、詩歌の美を保証している。わたしは、これを緒口に、<場面>、<撰択>、<転換>、<喩>の順序を確定し、この四つが、現在までのところ、言葉で表現された作品の美を、成り立たせているだろうという、理論の根幹を、形成することができた。≫(272頁 下線は引用者)
 この四つの要素は、原著の『言語にとって美とはなにか』では「韻律・選択・転換・喩」(下線同前)と、先頭が違っていますが、趣旨は同じだと思います。韻律は、日本語の場合は音数律の問題になりますので、散文ならばその影響を低めに考えて<韻律>の代りに<場面>と置き換えて紹介したほうがいい、という配慮があったのではないかと思います。
 とはいいながら、この四つの方法を自分で使って「言語芸術」の成り立つ仕組みを書いてみたことは一度もありません。しかし、今回は自分でやってみることが必要だと思い、メモを取っておいたので、二、三日で片付くとおもったのですが、今日になってしまいました。その際の「手がかり」が、「たとえてみれば」として、『言語にとって美とは何か』第Ⅲ章の末尾(改訂新版の文庫本158~159頁)に書かれていなかったら、たとえ頓珍漢な分析であっても、書いてみることはできなかったのではないかと思います。
 以下の文章がそうですが、ご著書の解釈を鵜呑みにしてはいけないと思い、これを精読したうえで、その際出てきた二つの疑問を説くような形でアプローチしてみました。一つは、山本有三はなぜ自宅の接収解除(1951)がなされたのに、三鷹に戻らなかったのか。二つは三鷹をなぜミタカと書いたのかという疑問です。その結果、ご著書の解釈とは異なった山本有三の気持ちが浮き彫りになってしまいました。まあ半端な謎解きですが、今回はこの程度で良しとします。では始めます。

(1)場面の撰択
 ≪ 私がミタカ村に越したのは、二・二六事件の直後であった。その翌年に日支事変がおこり、その三年後に、ミタカは町になった。≫(第一段落)

 作者・山本有三は、なぜ小文の冒頭にこの場面を撰択したのでしょうか。
 引っ越し先は三鷹村です。この時代に引っ越しで気に掛けることは、一般に、引っ越し先の御近所の人々とうまく付き合っていけるかどうかでしょう。でも作者はそんなことを気に掛ける様子もなく、自分のそれと二・二六事件(1936)や日支事変(日中戦争)(1937)という当時の日本を揺るがしていた大事件とを結びつけ、次いで三鷹町の発足(1940)を結びつけます。このような場面を冒頭にもってくる理由は、割と分かりやすいと思います。二つ考えられます。
 ミタカ村がまもなく一大軍需工業地帯に変貌し、通勤人口や居住人口が急激に増えて行ったことが挙げられます。これが一つめです。象徴的な出来事は、調布町に飛行場建設の予定があり三鷹町の大沢地区がそこに含まれていたことでしょう。1938(昭13)年12月には買収がはじまり、1941(昭16)4月には「東京調布飛行場」が完成します。すると、同年12月の太平洋戦争開戦と同時に、三鷹の大沢において中島飛行機三鷹研究所の建設が始まります。するとまた、関連する軍需工場や研究施設が周辺に集まり、戦争末期には大小70を超える関連企業があったとされています。つまり三鷹を含む武蔵野地域は一つの系で引きずられたように「一大軍需工業地帯」となったのです。
 作家を取り巻く新生活もそのような周囲の変化を無視することはできなかったのです。それまでは土着の者とよそ者との単純な付き合いだったのが、戦時下向けの隣組のような付き合いが増え、国家の威光をかさにきる者たちに気を配らねばならなくなったのです。
もう一つは、この小文が戦後の1965年の三鷹市制15周年を記念する市報に掲載されたことです。戦後再び三鷹町は人口が増加し、1950年に市制が発足し ていきます。戦後新しく住民になった人々に、この町がかつて村であり、国策の為に急激に人口が増える軍需工業地帯という町であったことを知ってほしいと考えたのだと思われます。

(2)転換
 ≪ 太平洋戦争も、敗戦もミタカの家で迎えた。そういう意味で、ミタカは思い出の深い土地である。私はここで、「新編路傍の石」(1941 岩波書店)を書き、「戦争とふたりの婦人」(1938 岩波書店)を書き、「米百俵」(1943 新潮社)を書いた。新かなづかい、当用漢字の制定、新憲法の口語化にたずさわったのも、この時代のことである。≫(第二段落)

 第一段落の場面に比べ、一段と小さい場面の撰択は何を意味しているのでしょうか。
 1941(昭16)年の真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争と、並行するように拡大した一大軍需産業都市・三鷹町は、戦局の後退に合わせるようにして、次第に空襲に見舞われるようになります。どの家でも防空壕を掘り、空襲警報がなるとみな非難しましたが、空襲によって生き埋めになってしまうこともありました。多摩地区で空襲による死亡者は1500名に達します。しかし、一番つらかったのは食糧の確保です。とくに他所から入ってきた軍需関連工場の人々や、都会からの疎開組は大変でした。戦争が終わってもきびしい暮らしが続きました。
 なのに、です。作家の視線は、犠牲の多かった空襲や空腹の問題に向けるのではなく、自分の戦時下に書いた小説に向いています、なぜでしょうか。作家にとってこちらの方が大事だったからだと思います。どう大事だったのか。
 昭和12年に連載を開始した「路傍の石」は明治中期に貧しい境遇に育った少年がどう生きるかを描いた教養小説です。ですが、軍部の検閲がうるさくて、昭和15年には山本は断筆してしまいます。また「戦争とふたりの婦人」(1938)は、アメリカ南北戦争の時代を生きた二人のアメリカ人女性の伝記的読みものです。戦争下の女性の生き方がテーマになっているそうです。最後の「米百俵」(1943)ですが、これは前半が戯曲、後半が評論になっています。今ではよく知られた戯曲ですが。この本の「はしがき」で、山本はこう書いています。──≪「米をつくれ。」「船をつくれ。」「飛行機をつくれ。」と、人々は大声で叫んでおります。もちろん、今日の日本においては、これらのものに最も力をつくさなければならないことは、いうまでもない話であります。しかし、それにも劣らず大事なことは、「人物をつくれ。」という声ではありますまいか。長い戦いを戦いぬくためには、日本が本当に大東亜の指導者になるためには、これをゆるがせにしたら、ゆゆしき大事と信じます≫。
 引用に見え隠れするのは、国民作家としての矜持ではないでしょうか。これがなくては、戦争と人間という大きなテーマで作品化することは難しかったはずです。
 また引用の後半では、敗戦直後(昭和21年頃)には、自分が関与した新しい日本の指針つくりのことを書いています。戦後という新しい時代に国語をどう表記するべきかという、国民一人ひとりに関わってくる問題です。そのため、作家は「振り仮名の廃止」「当用漢字の判定」に知恵を絞りました。また、「新憲法の口語化」では、敗戦後すぐに「国語の平易化運動」を進めていた団体からの建議をきっかけにして、GHQの了承や閣議の了解をえて、ひらがな口語体による憲法改革草案を準備することになりました。口語化作業は極秘に進められ、作家の山本有三に口語化を依頼し、前文等の素案を得たとされています(国会図書館HP)。まさに国民作家の面目躍如だったのではないでしょうか。
 以上が、「太平洋戦争も敗戦もミタカの家で迎えた」国民作家が本気で考えた問題だったと思われます。つまり、小文の第二段落における展開は、作家の認識の深化であり転換であったことを意味しています。作家による認識の転換は、次の場面の導入によってさらに高度化していきます。しかしその場面は、国民作家の期待を裏切るものでした。

(3)喩
 ≪ しかし、敗戦の結果、私は家を接収され、懐かしいミタカを立ち退かなければならないことになった。私はしばらく他人の家に間借りをしたり、大森に移ったりして、今ではカナガワ県に住んでいる。ミタカが市に昇格したのは、その間のことである。ことしは、その十五周年にあたるというが、もし、家を接収されなかったら、私も市民として、ミタカにとどまっていたことであろう。/ミタカに住んでいたのは十一年ほどだが、ミタカは私にとって、忘れがたい土地である。≫(第三、四段落)

 三鷹に引っ越して以来、戦前から戦後直後までの11年間、戦時下の国民作家としての執筆活動、戦後新国家のために知恵を絞った場所はミタカの家だった。
 度重なる空襲にもかかわらず無事だったことが嬉しい。しかし、敗戦国日本の上に君臨するGHQ権力。ここからの接収命令に逆らうことはできない。空襲で東京は焼野原、そんな場所で次の住まいを探すのは容易ではないばかりか、大家族が一緒に住める住まいをさがすのも大変だ。
 ついに引っ越しの日がやってきた。
 ── 11年ぶりに三鷹を離れて見て、作家は三鷹時代を振り返る。あんなに仕事に没頭したのはなぜだろう。国民のため?国家のため? それもあるとは思うが、本当のところはどうか。平和を求めてきた平凡な人間の信仰のようなものがあったからではないか。
 仕事に没頭しながら、作家はいつのまにかこう考えるようになったのではないか。
 この自慢の家が度々空襲に遭いながら無事だったのは、私が国民のため、新国家のために一生懸命働いた自分への、神様からのご褒美のようなものだ。だからこそ、接収命令はショックだった。青天の霹靂といってもよいほど、接収ということは頭になかった。自分の勝手な思い込みには違いないのだが。不覚にもいつの間にかそう思い込んでしまった。
「勝手な思い込み」といえば、日本の戦争中の指導者の多くがそうだったし、指導された国民大衆も同じだ。自分だけが敗戦国民としての反省から逃れていると思ったら勘違いもいいところだ。
 こう考えたら、もうあの家に戻ることはできない(1951年に接収は解除されたが、山本は戻らなかった)。私も、恥は知っているからだ。では、どうすればいいのであろう。一つ言えるのは、そういう、いい気になっていた自分を忘れないことだ。そうだ、この気持ちをこめた言葉がほしい。みたかでも三鷹でもなく「ミタカ」はどうだろうか。ミタカは、自らの思い込みによっていい気になっていた自分の喩であり、戒めである。
 それゆえ、ミタカは作家にとって、「忘れがたい土地」なのである。

追記
 山本有三は、なぜ三鷹をミタカと表記したのだろうか。思い込みよっていい気になって生きていた自分の像を思い起こせる喩であるからだ。ならばこの小文をしたためるときに住んでいた神奈川県はなぜ、カナガワ県として表記され、接収によって三鷹を出て間もない頃に住んだ大森はなんでカタカナ表記になっていないのか。これが誤植でないとすれば、なにかはっきりした理由があるはずである。(8/14/2020)

*三鷹市の戦時下の様子については、同市の「みたかデジタル平和資料館」とウィキペディアを参照させていただき、また作者山本有三については同じく「山本有三記念館」のHPとウィキペディアを参照させていただきました。記してお礼申し上げます。

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