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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宗教的情熱のこれっぱかりもないような生活

2021-02-01 00:27:57 | コラムと名言

◎宗教的情熱のこれっぱかりもないような生活

 民俗学研究所編『民俗学の話』(共同出版社、一九四九年六月)から、折口信夫の「神道の新しい方向」というエッセイを紹介している。本日は、その二回目。

 神道では、これまで宗教化するということをば、大変いけないことのように考える癖がついておりました。つまり宗教としてとり扱うことは、神道の道徳的な要素を失って行くことになる。神道をあまり道徳化して考えておりますために、それから一歩でも出ることは道徳外れしたものゝようにしてしまう。
 神道は宗教ぢやない。宗教的に考えるのは、あの教派神道といわれるもの同様になるのと同じだという、不思議な潔癖から、神道の道徳観を立てゝ、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来ておった。
 われわれの近い経験では――勿論われわれは生れておらぬ時代ですが――明治維新前後に、日本の教派神道というものは、雲のごとく興って参りました。どうしてあの時代に、教派神道が盛んに興って来たかと申しますと、これは先に申しました潔癖なる道徳観が、邪魔をすることが出来なかった。一旦誤って潔癖な神道観が、地を払うたために、そこにむらむらと自由な神道の芽生えが現れて来たのです。
 たゞこのときに、本当の指導者と申しますか、ほんとうの自覚者と申しますか、正しい教養を持って、正しい立場を持った祖述者が出て来て、その宗教化を進めて行ったら、どんなにいゝ幾流かの神道教が現われたかも知れないのです。たゞ残念なことに、そういう事情に行かないうちに、ばたばたと維新の事業は解決ついてしまいました。それから幸福な、仮りに幸福な状態が続いてまいりました。そのためにまた再び神道を宗教化するということが、道徳的にいけない、道徳的に潔癖に障るような心持が、再び盛に起って参りました。そうして日本の神道というものは、宗教以外に出て行こうとしました。
 たゞいまにおきましても神道の根源は、神社にある、神社以外に神道はないと思っていられる方が、随分世の中にあるだろうと思います。それについて、なお反省して戴かなければならない。相変らずそうして行けば、われわれはついに、西洋の青年たちにもおよばない、宗教的情熱のこれっぱかりもないような生活を、続けて行かなければならないのです。
 思うて見れば、日本の神々は、かっては仏教家の手によって、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。仏教々理の上に、日本の神々を活かしたこともあったわけです。
 そういう意味において、従来の日本の神と、その上に、仏教的な日本の神というものが現れてまいりました。しかし同時に、そういう二通りの神をば信じておったのです。しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられておったんぢやないのです。たとえば法華経には、これに附属した経典擁護の神として、わが国の神を考え、崇拝せられて来たにすぎませぬ。日本の神として、独立した信仰の対象になっておったわけではありませぬ。だから日本の神がほんとうに宗教的に独立した宗教的な渇仰の的になって来たという事実は、今までのあいだになかったと申してよいと思います。【以下、次回】

 文中、「かって」は、原文のまま。
 なお、「そういう二通りの神をば信じておったのです。」というところは、青空文庫では、「さういふ二通りの神をば信じてゐたのです。」となっている。このことから、青空文庫にある「神道の新しい方向」は、『民俗学の話』所収のものが書き直されたものであると見て、ほぼ間違いないだろう。また、この箇所だけを根拠にして言うわけではないが、『民俗学の話』所収のものは、講演の速記録だった可能性が高い。

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