◎陸軍パンフレット事件と池田純久少佐
石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十三 皇道派への反発強まる」の章を紹介している。本日は、その四回目。
陸軍パンフレット事件
ソ満国境の旅から帰京すると、都大路〈ミヤコオオジ〉には秋風が吹いていた。三宅坂では、〝永田軍政〟もようやく軌道に乗って、林〔銑十郎〕陸相の顔色は明るかった。〔一九三四年〕十月一日、新聞班から「国防の本義と其強化の提唱」と題するパンフレットが発表された。これも永田〔鉄山〕の自信を物語るものといえる。いわゆる「陸軍パンフレット」事件だ。新聞は大きく紙面をさいて、この全文を報道した。世間はアッといった。
このパンフレットの執筆者は、軍事課政策班の池田純久少佐。彼が徴募課勤務務の大尉時代から、私とは仲がよかった。東大の依託学生出身の経済学士であったところから、若い記者たちと話が合った。一等卒、二等卒と〝卒〟呼ばわりしていたのを、一等兵、二等兵と改めたのも、徴募課時代の彼の発想によるものだった。また、錦旗革命〔十月事件〕を暴挙であるとして、これを〝粉砕〟したのも池田である。
このパンフレットは「たたかひは創造の父、文化の母である」といった書き出しで始まった。そして、「国防観念の再検討」「国防力構成の要素」について論じ、広義国防国家の確立のためには、「現経済機構の変改是正」を断行、もって「国民生活の安定」「農山漁村の更生」を図るべきであるというにあった。むろん「現経済機構の変改是正」といっても、それは暴力革命による変革ではない。「新経済機構に具備すべき要件」の一つとして、「個人の創意と企業欲とを満足せしめ、ますます勤労心を振興せしめること」をあげている。すなわち、統制経済―修正資本主義路線を目指しているところに、その特色があった。皇道派青年将校グループは、この論理を「軍財抱合体制」と呼んで軽蔑した。
永田軍政が軌道に乗るとともにまず手をつけたのは、目ざわりな皇道派一部青年将校の征伐であった。弾圧の手は徐々に隊付将校の上へのびつつあった。すでに参謀本部第八課(諜報・謀略)では青年将校の決起に備えて、「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」なるものを作っていた。これは青年将校が決起したならば、一挙にこれを踏みつぶそうとのねらいである。当時、第八課の責任者は武 藤章で、対策要綱の立案に当たったのは関東軍参謀だった片倉衷〈タダシ〉少佐であった。
もともと中央部のエリート幕僚にとって、革新派の青年将校、ことにその理論指導者と目される北・西田は、憎んでもなおあきたらない〝悪魔〟であったのだ。なぜかというのに、幕僚はいずれも陸大出身の特権階級である。そこは〝無天組〟の入り込むすきのない〝陸軍大学閥〟の牙城である。だというのに、一部将校の態度はどうだ。ふらちにも〝陸大入校を拒否する連盟〟などといって、天保銭組の足を払おうとする。しかも幼年学校では「台賜」、士官学校では「恩賜」の銀時計組の青年将校までが、その運動の先頭に立っているという。生意気千万なやつばらだ。いまにしてこれらをたたかなければ、せっかくの〝特権〟を失う恐れがある。〝陸軍部内から不逞将校を一掃しろ〟―エリートたちは怒りに燃えた。こう考えたのは、何も反皇道派の幕僚ばかりではない。チャキチャキの皇道派系中堅幕僚までが、憎悪の目を向けていたのだからおもしろい。たとえば、荒木〔貞夫〕の心酔者であった大臣秘書官の前田正実〈マサミ〉中佐までが、一部将校の弾圧を口にしていたほどである。
そのうえ幕僚陣にとって、暴力革命はもはや全く不要であったのだ。すなわち、アンチ財閥思想の想定敵国とされた三井は、シッポをふって幕僚陣に近づいている。同社の巨頭池田成彬〈シゲアキ〉は〝利益追及第一主義〟からの転向を誓った。三井報恩会の設立、三井一族の経営面からの後退、株式の公開などの新方針を打ち出したのがそれである。当時、池田が、愛国恤兵〈ジュッペイ〉金、軍人会館の建設費などに投げ出した寄付金だけでも、六千万円余という巨額にのぼっている。三菱、住友などの財閥が、これに追随したことは説明するまでもなかろう。
官僚陣もまた、幕僚陣との接触に懸命となっていた。永田軍務局長はこれを歓迎した。建設計画ということになると、軍人には手が出ない。どうしても革新的少壮官僚と手を結ぶ必要がある。ここに両者の固い握手がかわされたのだ。いわゆる〝新官僚〟の台頭である。後藤文夫、岸信介、唐沢俊樹、松井春生〈ハルオ〉、小金義照〈コガネ・ヨシテル〉、藤井崇治〈ソウジ〉、大和田悌二、迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉、田中長茂〈ナガシゲ〉、相川勝六〈カツロク〉、奧村喜和男〈キワオ〉、和田博雄などがそれである。
これについて前記の池田純久はその著書の中で次のように述べている――
「われわれ統制派の最初に作製した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった。警視庁を占領するとか、議会を占領するとか、著名政治家を監禁するとかの暴力沙汰であった。しかしそれはあくまで軍の統率のもとに、一糸乱れぬ指揮をもって行動しようというのである。しかしわれわれでの研究が進むにつれて、暴力革命的方式を廃して、合法的手段、つまり現行憲法に抵触せずして、国家革新を行うことに頭をひねった。それはこうである……陸軍大臣を通じて政治上の要望を政府に提案し、これを推進するならば、必ずしも暴力革命の手段によらずとも、国家革新は可能である、という結論に達した。統制派は、かくして暴力革命を排し、陸軍大臣を通じ行う方式を採用することに、その態度を一変したのである」【以下、次回】