◎戦争末期になって不思議なことが起った(折口信夫)
民俗学研究所編『民俗学の話』(共同出版社、一九四九年六月)から、折口信夫の「神道の新しい方向」というエッセイを紹介している。本日は、その四回目。
たゞわれわれの情熱だけで、宗教を出現させることの出来るものでもありません。宗教には何よりもまず、自覚者が出現せねばなりません。神をば感じる人が出なければ、千部万部の経典や、それに相当する神学が組織せられていても、意味がありません。いくらわれわれがきびしく待ち望んだところで、そういふ人がそういふ状態に入るということは、必しも起って来ることでもありません。
しかし、たゞわれわれがそうした心構えにおいて、百人、千人、あるいは万人、多数の人間が憧憬をし、憧れておったら、遂にはそういう神を感得する人が現れて来るだろう、おそらくそういう宗教が実現して来るだろうと信じます。
そればかりではない。おそらく最近に、教養の高い人の中から、きっと神道宗教の自覚者をば出すことになるだろうと思います。
それには、われわれは深い省みと強い感情とをもって、われわれ自身の心から、われわれ自身の肉体から、迸り出るように、そういう人が、啓示をもって出て来るようにしむけなければなりません。極端ないゝ方をすれば、われわれ幾万の神道教信者の中に、最も神の旨に叶った予言者たり得るものありやということに帰するのです。
われわれのすべきことはそういう時を待つ態度であります。もし私が、宗教的自覚状態に入って、深い神の意志を把握する――。そういう時に至るまでの用意ができているかというのです。われわれは、どういう神を得ようとしているか。われわれはどういう神をばかって持っておったか。こういう解決を要する、最後的な疑問を持っているのでなくてはなりません。
ところが、戦争末期になって、不思議なことが起ったのです。
まことに笑うべき形を持って現れて来たのですが――。そこに考えてよい旨が感じられました。それは神道家、官僚人らの間に、天照大神が上か、天御中主神が上かという争論が起ったことがございました。それをば世上の争いとして、あるいは世上の争いに似たようなことで解決つけようとした人もあったのです。そのとき、われわれは非常に憤りを感じました。神神に関する知識を解決するのに、何たる行動をとるのだろう。宗教のことをば、どういふ筋合いあって、こういうふうに解決しようとするのか。神を汚すことの甚しいものとして、非常に残念に感じ、危く悲憤の涙をこぼすばかりに感じました。
こういうあり様だから、神々に背かれたのです。しかし今、冷やかになって考えます反省は、日本のこれから後に現れて来る宗教上の神の実体というものが、そこに示されているのだということです。天照大神あるいは天御中主神、それらの神々の間に漂蕩し、棚引いている一種の宗教的なある性質の、混じているところの神なるものが、暗示しているのではないかということです。【以下、次回】