◎一部将校とはブラックリスト青年将校を指す
本日以降、石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「三 要注意青年将校の出現」の章を、何回かに分けて紹介してみたい。
将校生徒時代の西田税
次に話題を「一部将校」すなわち〝皇道派青年将校〟の動きに移す。
一部将校というのはもともと憲兵用語で、ブラックリスト青年将校のことをさす。つまり〝国家革新〟などと不穏な動きを示すやからは、軍の中のほんの〝一部〟に過ぎない、というところから、この名称が生まれたものだ。たとえば、二・二六事件突発直後の陸軍省発表が「本日午前五時ごろ、一部青年将校等が左記箇所を襲撃せり」といっているのがこれである。
さて、一部将校というと、どうしてもその〝原点〟として革命児・元騎兵少尉西田税〈ミツギ〉の名をあげなければなるまい。西田は明治三十四年十月、鳥取県米子市の生まれ。大正四年九月、県立米子中学から広島地方幼年学校へ入学。成績抜群。地方幼年学校の三か年をつねにトップで通して、校長生島駿以下教官の期待を一身に集めていたものだという。
この機会に幼年学校なるものについて簡単に説明すると、この学校が創立されたのは明治二十八年の日清戦争直後のこと。ロシア、ドイツ、フランスなど三大国の圧力で、遼東半島を清国に還付しなければならなくなった時、ロシアへの復誓を誓ってつくられた幹部養成のための学校である。
所在地は旧鎮台のあった東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六ケ所。ここを卒業すると東京の中央幼年学校(陸士予科)で一年九か月、さらに隊忖六か月を経て、陸軍士官学校へ入学することとなっていた。西田の入学した広島校は、長州陸軍の本拠地山口県に隣接していたため、生徒の多くは同県の出身者。〝長州人でなければ人にあらず〟といった空気が校内にみなぎっていた。閥外で、しかも成績が群を抜いているとあっては、西田少年が彼ら一党から憎悪のマトとされたことはいうまでもない。長閥何するものぞ――西田の反骨精神はこの広幼時代につちかわれたといっていい。
大正七年七月、首席で卒業した彼は、同年九月、牛込市ヶ谷台にあった東京中央幼年学校へ入学した。淳宮〈アツノミヤ〉(秩父宮〔擁仁親王〕)が新入生の一人であった。首席卒業の誇りに燃えていた彼は、当然、淳宮の〝御学友〟に選ばれるものと考えていた。だが、どうしたわけか、その期待はもののみごとに裏切られた。宮様は第三中隊第一区隊で、西田は第一中隊第一区隊に回された。西田の失望は大きかった。彼は当時の悶々【もんもん】の情を〝西田自伝〟「戦雲を麾【さしまね】く」の一節で次のようにもらしている。
「御学友たるの期待は俄然裏切られた。入校式の前日たる八月三十一日に至りて、突如変更せられ、余は殿下を第三中隊に拝しつつ第一中隊生徒舎に起居することになった。今もなほ当時の真相不明である。殿下区隊に余の姓名を誌せる机ありと入校当初同中隊の生徒たちからしばしば耳にしたが、余は早くも一縷の望を絶って、かつての如く魂の修練に心をそそいだ……そは時あたかも米騒動の直後であり天災――全囯にわたれる暴風雨の惨害、労働者の暴動に等しき罷工怠業等を眼のあたりに見、思想界の紛糾混沌は左右両派の衝突、淫蕩文弱の毒潮淫々として横流せる、一々心に応へるもののみであった」(ドキュメント日本人3反逆者から)。
失意の彼は友を求めては談論風発、まず「世を慨き国を憂える」同志第一号として大阪幼年校出の福永憲を獲得、さらに宮本進らと親交を結んだ。「楊柳青く垂るる江河の岸に飲ふ〈ミズカウ〉馬賊を想ひ、広漠涯なかるべき満蒙の大原野に、報国一片の赤心に鞭つ暗中飛躍の志士に思ひを寄せては、二人(西田と福永)坐臥に堪へぬものがあったのである。余は『馬賊の唄』を作った。『日東男児蒙古行』を作った。そして二人は高唱した。同感の友は漸次にそれらを口吟しはじめた……」
と書いているところからみると、当時、十七歳の西田少年は、まだ「国家革新」といったような思想的洗礼を受けていないで、もっぱら大陸雄飛の日を夢みていたらしい。原隊として、ことさら北朝鮮羅南の騎兵第二十七連隊を選んだのも、大陸へのあこがれのしからしめたところのように考えられる。
大正九年三月、中央幼年学校を卒業すると士官候補生として羅南に在隊六か月。同年十月一日、陸士本科へ入学した。本科でも淳宮と同区隊といった望みはかなわず、中隊は同じ第一中隊でも、宮様は第一区隊、西田は第二区隊へ編入された。
本科へ進学後の西田の動きは活発であった。〝アジア民族の解放〟を目ざして、そのための同志を糾合しようというにある。日曜日ともなると、福永、宮本らと慶大教授の鹿子木員信〈カノコギ・カズノブ〉、玄洋社の頭山満〈トウヤマ・ミツル〉、大陸浪人の川島浪速〈ナニワ〉といった面々を訪問しては、「大アジア主義」について教えを乞うた。そして、同年秋、ひそかに「青年アジア同盟」を結成、校内に檄を飛ばして実践運動に乗り出した。拓大 教授の満川亀太郎〈ミツカワ・カメタロウ〉らを知ったのもそのころである。
当時、満川は大川周明〈シュウメイ〉、鹿子木員信、安岡正篤〈マサヒロ〉、笠木良明〈カサギ・ヨシアキ〉らとともに「猶存社〈ユウゾンシャ〉」を結成して、「アジア民族解放の戦い」を「日本国家改造の戦い」と結びつけようとしていた。
満川は猶存社の発足とともに大川を上海に派遣して、当時支那革命に参画していた北一輝〈キタ・イッキ〉の帰国をうながした。「日本が革命になる。支那よりも日本が危いから帰国しろ」というにあった。北は快諾した。そして、「本国の革命指導者のために、革命日本の骨格略図を示そう」といって書き上げたのが「国家改造案原理大綱」(日本改造法案大綱)であった。大川はこれを一読して賛嘆し、猶存社の企図する国家改造の指計とすることを誓ったのであった。
一方、西田の「青年アジア同盟」は着々と実を結んで、下級生にも強力な影響を及ぼしてきた。だが、才子多病。大正十年二月には胸膜炎と診断されて、陸軍病院へ入院を余儀なくされた。
ある日曜日のことだった。同志の宮本が西田の病床を訪れて、同人らが猶存社を訪問したてんまつを語った。そして、「真に頼むべきは猶存社ではなかろうか」と力説して、帰りぎわに満川から借りた北一輝著「支那革命外史」を枕頭に置いていった。
西田はこれを繰り返し繰り返し読みふけった。彼が「手記」の中で、
「爾来一週日、余は魅入らるる如く北氏の書を読んだ。眼界が殊に明るくなる如く覚えた。然して是れこそげに天下第一の書なりと思った」
と述べているのから察すると、よほど心を打たれたものらしい。アジア民族の解放から国家革新運動へ……彼の思想は大きく転換し始めたのである。
四月末、退院を許された西田は帰省を前にして猶存社に北を訪れた。しかし、この革命家どもの初めての対面は、さほど〝劇的〟といえるものではなかったようだ。これについて手記の中でも、
「猶存社に北氏と会見した。支那革命外史一巻の寄贈をうけ三時間あまり懇談ののち辞去した」
と、あっさり片づけている。
そこで、北一輝についてだが、彼に関しては余りにも知られ過ぎているので、ここでは簡単に触れておくこととする。彼の本名は輝次郎〈テルジロウ〉。明治十六年佐渡ケ島の産。二十歳の時、病気のため右眼を失明したが、これにひるまず、ひたすら社会科学の探求に没頭。弱冠二十四歳で独創的な国史観にもとづく「国体論及純正社会主義」の大著を発表した。これを読んで、当時、思想界のリーダーだった河上肇、福田徳三、片山潜〈セン〉、堺利彦、荒畑寒村〈カンソン〉、矢野竜渓〈リュウケイ〉らは〝天才の著作〟とほめたたえたという。 しかし、時の政府はすぐさまこれを発売禁止処分に付した。その後、中国革命に参画して「支那革命および日本外交革命」を出版。大正八年、上海の宿舎にあって「ヴェルサイユ会議の最高判決」を執筆。これを猶存社の満川に送ったのが動機となって、猶存社に迎えられたことはすでに説明した。丹下左膳の作者林不忘(長谷川海太郎)の父は北が中学生時代の学校長。林は北が隻眼ながら眉目秀麗、人を魅する魔力を持っているところに目をつけて、彼をモデルに「丹下左膳」をものしたものといわれる。
話を再び西田の動きに戻す。
西田が郷里で病気の療養につとめている留守中も市ケ谷台における同志の動きは活発であった。猶存社から〝革命の指針〟として秘密出版された「日本改造法案」は福永の手によって校内に持ちこまれた。若い将校生徒たちは、改造法案の行間に流れる魔力に胸をワクワクさせながら読みふけったものである。【以下、次回】
ここまでが、「将校生徒時代の西田税」の節である。なお、「将校生徒」とは、陸軍幼年学校の生徒ないし陸軍士官学校予科(のちに「陸軍予科士官学校」)の生徒を指す言葉である。また、文中、「市ヶ谷台」、「市ケ谷台」の表記は、原文のまま。