◎私はもっぱら沈黙を守り続けた(石橋恒喜)
本年に入ってから、石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)という本を紹介した。著者の石橋恒喜(一九〇三~一九九四)については、ほとんど予備知識を持っていなかったが、この本のカバーに、その略歴が載っている。
また、本書下巻の末尾にある「あとがき」には、著者の自己紹介的な記述も、多少、含まれている。本日は、これらを紹介してみよう。
石 橋 恒 喜【いしばしつねよし】
明治36年3月、千葉県生まれ。大正14年東京外語大卒業。昭和3年東京日日新聞入社。十 余年間にわたって陸軍省詰を担当。主として軍部をめぐる〝国家革新運動〟の取材に当た る。その間満州事変に従軍。同12年支那事変で北京特派員として徳川航空兵団に従軍。同13年社会部副部長。同15年旧蘭印バタビア支局長から帰国後、東京日日南方課長兼調査室幹事。同17年毎日新聞ジャカルタ(バタビア)支局長兼南方総軍報道部嘱託を命じられ、南方第一線の報道にあたる。同19年3月満蒙三国政府合弁龍烟(りゅうえん)鉄鉱株式会社に出向、東京弁事室長となる。同24年日本新聞協会審査室長となりマスコミ倫理懇談会、放送番組向上委員会、新聞即売委員会倫理化審議委員会等の設立に参画してマスコミ倫理運動の普及徹底につとめ、かたわら各誌にマスコミ問題評論を連載執筆。現在、評論家。日本記者クラブ会会員。更生省中央児童福祉審議会専門委員、東京家庭裁判所調停委員、東京 都青少年問題協議会委員等を歴任。
あ と が き
私の記者生活は、きわめて偏ったものであった。数年間の外信部記者と海外特派員勤務を除いては、十余年間を陸軍省詰めで終始したのである。その間、陸軍は、〝激動日本〟の「台風の目」であった。〝体制保守派〟へ向けての、血なまぐさい事件があい次いで突発した。なかでも忘れ難いのは、血に彩られた二・二六事件であろう。この事件は余りにも悲惨である。思い出すだに胸が痛む。事件から四十余年、私はもっぱら沈黙を守り続けた。
たまたま昭和四十九年二月、かつて私が軍事記者として勤務した毎日新聞社から、「松岡英夫対談、この人と」の欄で〝軍の内側から見た二・二六事件秘話を語れ〟との注文があった。いささかためらいを感じたものの、〝もう話してもよかろう〟と考えた末、当時の「記者手帳」を繰りながら、三日間にわたって松岡氏と対談した。この記事は、約一カ月近くにわたって毎日新聞紙上に連載された。そして、幸いにも好評だった。事件前夜に、〝あすあたり不穏事件が起こるかも知れない〟と予報して、〝バカな!〟と社会部長から一蹴された話とか、「陸軍大臣告辞」、「昭和維新大詔渙発問題」のからくり、あるいは「謎の宮城坂下門占拠事件」など、数々の秘話が語られているというにあった。
この連載が終わると同時に、桶谷繁雄氏の主宰する「月曜評論」から、「松岡対談」を中心として、陸軍記者の思い出を書いて欲しいとの申し出があった。が、そのころ私は、東京家庭裁判所調停委員の仕事に追われていたので、一応お断わりした。ところが、再度、桶谷氏から〝思ったことを何でも自由に書いてよろしいから……〟との寛大なお話しがあったので快く承諾した。「わが記者生活から見た昭和裏面史」と題して、ペンを執り始めたのが昭和五十年の二月だった。しかし、作業はしばしば停滞した。何分にも資料は、乱雑に書きなぐった「メモ」である。判読に苦しむものが多かった。そのころメモの整理を手伝ってくれていた愚妻が発病した。不治のガンである。病魔と苦悶する枕頭にあっての執筆生活は、身を切られるようにつらかった。何度か筆を投げようと考えたこともあった。
このようにして、ようやく連載が終わったのは三年九カ月目の五十三年九月のこと。四百字詰め原稿用紙で約千二百枚に及ぶ長編となってしまった。よくも長い間、自由に執筆を許してくれたものだ。桶谷氏の寛容な態度には、心から感謝に堪えない。この拙文を、補筆訂正、あるいは削除したのがこの書である。
もともと私は一介の社会部記者であって、学者ではない。従って、軍部内に燃えさかった「国家改造運動」を、分析しようなどとは、最初から考えていなかった。ただ、当時、新聞報道を禁止されていた,〝ニュース〟を、「記者手帳」の中から抜き書きするにとどめた。
戦後、若い学者や作家や評論家の書いた軍の革新運動の記録は、〝二・二六産業〟と言われるほどおびただしいものがある。が、それらは怪文書や一方的な伝聞によっているだけに、無責任な事実誤認を犯していると言ってよい。私は陸軍省担当の社会部記者では最古参だったがために、省部(陸軍省、参謀本部)の統制派系幕僚や隊付の皇道派系〝一部青年将校〟の間を飛び回っては、対立する両派の行動や見解を目にし耳にする自由があった。たとえば、統制派では、同派の理論家、池田純久少佐(陸軍パンフレットの執筆者、のちに中将、内閣綜合計画局長官)、景山誠一主計(のちに大佐、陸軍省軍務局軍務課経済主任)ら、一方、一部将校グループでは、歩兵第一連隊の山口一太郎、戸山学校の柴有時両大尉らは、新聞記者対軍人の立場を離れて秘密情報をもらしてくれた。それだけにこの記述に当たっては、出来るだけ中正公平な立場をとって、客観的に事実を事実として描写することにつとめた。北一輝、西田税両氏の〝首魁〟事件の報道については、あえて自らの恥を暴露した。軍の圧力に屈した私の懺悔録ともいうべきものである。
なお、二・二六事件の記録は、主として戒厳情報参謀・松村秀逸少佐(のちに少将、大本営報道部長)のブリーフィングなどを、丹念に記録したものである。昭和暗黒時代の裏面史として、ご参考になれば幸いである。
昭和五十四年一月 石 橋 恒 喜