◎北京にいるはずのお前が東京にいるとは(荒木貞夫)
石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
本日は、その六回目で、「荒木は検挙に反対」の節を紹介する。
荒木は検挙に反対
午後四時すぎ、総監部から退出した荒木〔貞夫〕は、その足で陸軍大臣官邸へ車を向けた。熊本への出張について、一応、南〔次郎〕へあいさつするためである。荒木の顔を見た南は、複雑な顔付きで彼を迎えた。荒木が不穏計画の首班に擬せられていることを知っていたからだ。
「今夜の出発を延期していただけないか。どうも情勢は険悪である。貴官に東京に残って、不穏を予想される計画の中止に努力して欲しい。いま省部の幹部会議が開かれている。それに出席してご指導願いたい」
荒木は教育総監部の本部長であって、陸相も参謀総長も直接命令はできない。「おたのみとあれば……」と荒木は承諾した。大臣応接室では激論が闘わされていた。大努は一挙に不穏分子の検挙に傾いていた。が、一味に同情的な重藤〔千秋〕らは、かぶりを振らない。
「諸官は即刻、橋本らを検挙せよ、というが、問題となっている将校たちに、歴然たる証拠があるのか。密告者たちは明早朝決行の計画があるというが、小職の知り得たところでは、そんな事実は全くない。いま一片の密告だけで、これらの有能な将校にキズをつけるようなことがあったら、国家国軍の大損失である。検挙などとはもってのほかだ。自分はあくまで反対する」
荒木がこれを支持した。そして彼みずから説得におもむくこととなった。だが、一味のアジトについてたずねると、だれも口をつぐんで答えようとしない。荒木はかんしゃく玉を破裂させた。
「諸官が知らぬ存ぜぬというなら、小職としても処置なしである。わが輩は帰る」
荒木が立ち上がりかけたところへ、〝参謀本部に一味の馬奈木〔敬信〕がいる〟という情報をもたらしたものがあった。そこで、一同を待機させたまま、馬奈木を案内役に築地の金竜亭へ車を向けた。
料亭の玄関で〝橋本に会いたい〟というと、橋本はいま不在だという。そこへ長〔勇〕が現われたので、すぐ別室へ呼んだ。〝北京にいるはずのお前が東京にいるとは何ごとか〝と聞くと、「国内が混迷に陥っているので、座視するに忍びず、無断で出てきました」とのこと。荒木も開いた口がふさがらなかった。すると長が能弁にまくし立てた。
「重臣、政府、政党、財閥は腐敗し、軍の上級者は無気力で、満州事変に対応する力はない。まさに国家は危機を迎えている。われわれはこれを腕をこまねいて見ているわけにはいかない。よって同志はここに結束を固めて、断固、決起の決意を固めている。この際、閣下の決起をお願いいたします」
「まあ、待て! わが輩の言うことを聞け」
長広舌となると、陸軍部内で荒木に及ぶものはない。彼は時間のたつのも忘れて、とうとうと暴挙を中止するよう説いた。さすがの長もへきえきした。
「分かりました。ともかく一応、閣下を信じて、決起を中止することにいたします。その代わりに、閣下の責任において国家革新を断行、満州事変をはじめ内外の諸懸案をきちんと解決してくださいますか」
「よろしい。わしにできる限りのことはやる」
そこで荒木がトイレに立つと、廊下でバッタリ顔見知りの大川周明と霞ケ浦海軍航空隊司令の小林省三郎と出会った。これで荒木は、不穏計画が陸軍だけでなく海軍や民間側も加わった、かなり大規模なものであることを知った。荒木が座敷に戻ると、補任課長の岡村〔寧次〕がしきりに彼を探している。荒木の帰りが余りにも遅いので、迎えにきたのだという。
「閣下、もう帰りましょう」
岡村がしきりにうながすので、荒木は陸軍省へ帰って再び会議の席へ臨んだ。時計の針は、すでに午後十一時をまわっていた。荒木は説いた。
「首謀者の長は〝一応、中止します〟と言明した。長がやめるといったからは、他のものは各直属上官が懇切にさとしたなら、決意をひるがえすに違いない。彼らの考え方は急進的ではあるが、やはり国を憂えてのことである。憲兵に拘束させるようなことをするとかえって彼らを刺激し、禍根を将来に残すことになろう。ことに諸官は明朝決起と騒ぐが、聞いてみると予定はまだ先のことだ。自分は検挙に反対だ」
温情主義者の荒木に対して、合理主義者の今村〔均〕、東条〔英機〕、永田〔鉄山〕は真っ向から反対した。ただちに〝検挙すべきだ〟というのだ。議論はなおも一時間も続いた。しびれを切らした外山〔豊造〕が発言した
「もうすでに夜半を過ぎている。即刻、命令を下してくれないと、憲兵司令部としても午前四時前の処置は不可能である」
この発言の結果、杉山〔元〕、二宮〔治重〕が官邸で待機中の南〔次郎〕に会議の経過を報告、大臣の決裁を求めることになった。杉山らが出ていくのと入れ違いに陸軍省表門の守衛がはいってきて名刺を今村へ手渡した。
「ただ今、背広服姿の男が自動車を乗りつけて〝至急これを今村大佐に届けて欲しい〟と言いおいて立ち去りました」【以下、次回】