◎朝日新聞の山田正男記者に蔵相暗殺の第一報
『週刊朝日奉仕版』(一九五八年五月一四日)から、細川隆元執筆の「二・二六事件その日」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
蔵相暗殺の第一報
一体、二・二六事件の第一報はどうして朝日新聞にはいったのだろうか?、一応その経路を書いでおこう。当時整理部に山田正男君(現在東京書籍株式会社編集部次長)という青年記者がいたが、この山田君の実兄の山田鉄之助氏(現在オリエント時計社長)が当時大蔵省の営繕管財局長だった。高橋〔是清〕蔵相が反乱軍のために払暁〈フツギョウ〉赤坂の自宅で殺されたというニュースを一番先きに知ったのが、この山田営繕管財局長で、それは午前五時前であった。山田氏の奥さんが弟が新聞記者だからこれは早速弟に知らせてやろうと気を利かせて山田正男君の家に電話で知らせて来たものらしい。そこで、この山田君がまず自分の直属長官である北野〔吉内〕整理部長に急報し、北野君から各方面に連絡したのが、ニュースが社内の要所々々に届けられたルートだったのである。
その朝、社には前晩からの編集宿直として社会部員の磯部裕治(現東京新聞外報部長)、大島泰平(現西部朝日整理部)、島津弥六(定年退職)、石母田敏夫(後の函館新聞編集局長、故人)の四君が宿直をしていて、前の晩の三時ころまで後始末の仕事をして宿直室に引きとって寝たのが四時ころ。そして午前五時半ころ、尾坂〔与市〕社会部長からの電話で寝入り端〈ネイリバナ〉を叩き起された四君は、ねむたい眼をコスリコスリ起き出たのがニュースを聞いて眼がポッカリ覚め、とにかく社員名簿をひっくり返しながら「スグシュッシャセヨ」の同文のウナ電と、電話のある社員には片っ端から電話をかけて動員を図ったのであった。四人の宿直者の中で、島津、石母田両君は当時警視庁担当の第一線記者だったので、早速運ちゃんをたたき起して外に飛び出して行き、磯部、大島両君が幹部が来るまで社内で采配を振ったのである。
ところが飛び出して行った前の両君がしばらくしてすぐ戻って来た。「とてもダメだ。警視庁も軍隊に占領されていて近づけない。赤坂方面も兵隊がトグロをまいていて朝日の社旗を立てて走っていても『ダメダ、ダメダ、帰れ帰れ』と兵隊がエライ剣幕で手のつけようがない」と、さすが腕利きの警視庁第一線記者も手の施しようがなかった、ということだった。【以下、次回】