礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

守衛隊司令みずからが宮城を制圧する計画だった

2021-02-12 04:20:20 | コラムと名言

◎守衛隊司令みずからが宮城を制圧する計画だった

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
 本日は、その二回目で、「七 不発に終わった錦旗革命」の章の最初の節、すなわち、「二・二六事件以上の規模」の節を紹介する。

 二・二六事件以上の規模
「錦旗革命」については諸説紛々。肝心の関係書類が一切焼き捨てられたこととて、不明な点が多い。ただ、はっきりしていることは、その規模において、二・二六事件なぞ遠くその足もとにも及ばないということだ。
 まず、橋本〔欣五郎〕は革命決行の主力を陸軍の部隊においた。だが、部隊を動かすのには、参謀肩章も天保銭も役に立たない。どうしても隊付の中、少尉の力を借りる必要がある。橋本ら中央部の幕僚が、隊付将校の獲得に狂奔したのはこのためである。そして、さらに藤井斉〈ヒトシ〉海軍大尉をリーダーとする海軍将校の「王師会」と手を結んだ。民間側は全国的に在郷軍人団を動員するほか、大川周明〈シュウメイ〉の「行地社」、岩田愛之助の「愛国社」、北〔一輝〕・西田税派の右翼革新団体、井上日召〈ニッショウ〉の一党、それに大本教の出口王仁三郎〈オニサブロウ〉とも連携して、信者を決起させる手はずを決めた。
 もちろん、陸軍部隊は在京の近衛、第一両師団が主力。兵力は近衛各歩兵連隊から十個中隊と機関銃一隊、第一師団からは歩兵第一、第三両連隊から数個中隊を動員。昼間決行の場合と夜間の場合との二つを想定して、それぞれ異なった案をたてていたようだ。加盟した将校は在京者だけでも約百二十名。戸山学校、砲工学校、歩兵学校所属の将校や士官学校在学中の士官候補生も血盟の同志となった。これらの士官候補生の中には、翌昭和七年の五・一 五事件に参加した池松武志、後藤映範〈エイハン〉、篠原市之助、石関栄ら十二名の名も見える。
 なかでも、軍当局を驚かしたのは、宮城制圧の計画だ。これを担当したのは近衛歩兵第三連隊の大隊長、田中信男少佐。田中が宮城の守衛隊司令にあたった日を決起の時と定め、一挙に重臣など君側の奸〈カン〉を葬り去ろうというにあった。守衛隊司令みずからが、宮城占領の張本人とあっては、側近はひとたまりもなかったろう。そして、田中は、側近を血祭りにあげると二重橋前で割腹。重臣殺害の罪を天皇にわびる決意を固めていたといわれる。また、アッといわせたのは、〝抜刀隊〟の編成である。これは戸山学校の剣術科教官、柴有時〈アリトキ〉大尉を隊長とする切り込み隊。末松太平〈タヘイ〉、大蔵栄一、岩崎豊晴など腕におぼえのある教官や将校学生、下士官学生を選りすぐって、抵抗するものは切って捨てようというのだ。毒ガスも用意された。下志津〈シモシヅ〉陸軍飛行学校からは、飛行機も参加するという。これらのほかに、地方の各師団からも同志の将校が陸続と馳せ参ずることになっていた。たとえば、〝兵火〟事件で知られる青森歩兵第五連隊付大岸頼好〈ヨリヨシ〉中尉などもひそかに部隊をぬけ出して東京にあった。上京将校のためにはホテルも用意された。海軍との連携も着々と進められた。このため橋欣〔橋本欣五郎〕みずから霞ケ浦海軍航空隊に司令の小林省三郎〈セイザブロウ〉海軍少将を訪問、爆撃機の出動を要請している。
 一方、大川ら民間側に対しては特殊の任務を分担させた。それはもっぱら言論機関の占拠にあったようだ。目標は東京日日、東京朝日、時事、報知、国民、読売の各新聞社と中央放送局。特に東京日日と東京朝日に主力をおき、大川一派が見学と称して両社の偵察に行っている。彼ら一派は、決起と同時に革命本部からつけられた部隊の指揮官となって、言論機関を握ろうというにあった。【以下、次回】

 大岸頼好の「兵火事件」については未詳。なお大岸は、「兵火」と題する印刷物を発行していたようだ。

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