◎神を信ずる心をとり返さねばなりません(折口信夫)
民俗学研究所編『民俗学の話』(共同出版社、一九四九年六月)から、折口信夫の「神道の新しい方向」というエッセイを紹介している。
本日は、その五回目(最後)。【 】内は、原ルビ、または傍点を示す。
たゞいまになって、そう考えるのです。それはこういうことです。
日本の信仰の中には、他国に多少その要素があっても、日本的にまた世界的にも、特殊であり、すべてに宗教から自由なものといっていいもののあることです。
それは、高皇産霊神・神皇産霊神といっている――、あの産霊神の信仰です。字は、産むの「産」、「たましい」の霊で、魂を産むというふうに宛てられていますが――、神自身の信仰はそうでなく、生きる力を持つた体中へ、魂をば植えつける、あるいは生命のない物質の中へ魂をば入れる――、そうすると魂が発育するとともに、それを容れている物質が、だんだん育って来る。物質も膨れて来る。魂も発育して来るというふうに、両方とも成長してまいります。その一番完全なものが、神それから、人間となった。それの不完全な、物質的な現れの、もっとも著しく、強力に示したものが、国土あるいは島だ、と古代人は考えました。それが日本の大昔の神話に現れている、大八州国のできたといふ物語り、あるいは神々が生れたという物語りです。
つまり神によって躰の中に結合せられた魂が、だんだん発育して来る、それとともに物質なり肉体なりが、また同時に成長して来る、その聖なる技術を行う神が、つまり高皇産霊神・神皇産霊神、即むすび【、、、】の神であります。つまり霊魂を与えるとともに、肉体と霊魂の間に、生命を生じさせる、そういう力を持った神の信仰を、神道教の出発点に持っております。それで考え易い誤りがあって、日本は昔から、その産霊神をば、祖先として考えている家々もありました。
おなじ考え方からして、古代の書物に、これを宮廷の祖先というふうにも考えているのです。
皇祖とか祖宗とか書いてあります神の中には、この高皇産霊神・神皇産霊神たちを申しておる例も多いのです。しかしよく考えますと、魂を植えつけた神で、人間神ではないのです。しかし日本人は、そういう神々を祖先として感じ易かった。その論理の筋はわかります。
いまにいたるまで、日本人は、信仰的に関係の深い神を、すぐさま祖先というふうに考え勝ちであります。その考えのために、祖先でない神を祖先とした例が、過去にはうんとあるのです。高皇産霊神・神皇産霊神も、人間としての日本人の祖先でありようわけはないのです。つまり、人間の魂を――肉躰を成長させ、発育さした生命の本になるものを植えつけたと考えられた神なのであります。
われわれはまず、産霊神を祖先として感ずることを止めなければなりません。宗教の神を、われわれ人間の祖先であるというふうに考えるのは、神道教を誤謬に導くものです。それからして、宗教と関係の薄い特殊な倫理観をすら導き込むようになったのです。だからまずその最初の難点であるところの、これらの大きな神々をば、われわれの人間系図の中から引離して、系図以外に独立した宗教上の神として考えるのが、至当だと思います。そうしてその神によって、われわれの心身がかく発育して来た。われわれの神話の上では、われわれの住んでいるこの土地も、われわれの眺める山川草木も、総てこの神が、それぞれ、適当な霊魂を附与したのが、発育して来て、国土として生き、草木として生き、山川として成長して来た。人間・動物・地理地物みな生命を完了しているのだということをば、もう一度、新しい立場から信じ直さなければならないと思います。つまりわれわれの知識の復活が、まず必要なのです。
神道教は要するに、この高皇産霊神・神皇産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、さらに考えを進めて行かなければなりませぬ。
その用意もすでに、だいたいできております。それが久しい神道学の準備せられた効果なのです。たゞわれわれにまだ欠けておるのは、それを宗教化するところの情熱です。われわれの前に漠々たるものは、そういう宗教家が、われわれの前に現れて来ることを待っているばかりの、現実です。
われわれが本当にこの世の中の秩序を回復し、世の中をよい世の中にし、礼譲のある美しい世の中にするのには、もう一遍埋没した神々に、復活を乞わなければなりません。
もう一遍神を信ずる心を、とり返さねばなりません。そうしない限り、この日本の秩序ある美しい社会生活というものは実現せられないだろうと思います。
その日まで、われわれはこうして神道の、神学を組織するに努めているでしょう。そうして心静かに、神道宗教の上に、聖【キヨ】い啓示を待つばかりです。
「高皇産霊神」、「神皇産霊神」、「産霊神」の読みは、順に、「たかむすびのかみ」、「かみむすびのかみ」、「むすびのかみ」である。
文中の「大八州国」は、原文のまま。ここは青空文庫では、「大八洲国」となっている。読みは、「おおやしまぐに」。
また文中に、〝字は、産むの「産」、「たましい」の霊で、魂を産むというふうに宛てられていますが〟というところがある。おそらくここは、口で説明しただけでは伝わりにくいので、「字」を説明したのであろう。すなわち、この文章が講演を記録したものだった可能性を示していている部分である。
また、「祖先でない神を祖先とした例が、過去にはうんとあるのです」という箇所があるが、これも同様に、この文章が講演を記録したものだった可能性を示す。ちなみに、同箇所は青空文庫では、「祖先でない神を祖先とした例が、過去には沢山にあるのです」となっている。
明日は、石橋恒喜著『昭和の反乱』上下巻(高木書房、一九七九年二月)の紹介に戻る。