礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

橋本欣五郎、板垣宛に電報「こと破れたり」

2021-02-17 05:32:06 | コラムと名言

◎橋本欣五郎、板垣宛に電報「こと破れたり」

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
 本日は、その七回目で、「橋本以下十二名検挙へ」の節を紹介する。

 橋本以下十二名検挙へ
 今村〔均〕が名刺の裏面を見ると、「彼らがやめるといったのはウソだ。あくまでやるんだといきまいている」としたためてあった。この情報はすぐ南〔次郎〕のもとへもたらされた。沈痛な面持ちで南が口を開いた。
「これから自分の決心を述べる。次官はただちに憲兵司令官へ伝達したまえ――外山〔豊造〕憲兵司令官は午前四時までに橋本〔欣五郎〕中佐以下関係者を憲兵隊に保護拘束すべし〟」
 この日、憲兵司令部では、芝浦で懇親会を開いていた。翌日が祝祭日にあたるので、満州事変が突発以来の慰労のためであった。そこへ宿直将校から電話がかかってきた。
「ただいま陸軍大臣からの電話で、緊急事態発生。司令官に至急、陸軍省へ来てほしいとのことです」
 外山は押っとり刀で陸軍省へ。総務部長の二宮晋一大佐以下各憲兵将校は、司令部へとって返して待機した。不穏将校に対する保護拘束の命令は、二宮から東京憲兵隊長の難波光造大佐に伝えられた。難波は特高課長の村野直弘らと協議の結果、十七日払暁を期して一斉に身柄を拘束。東京隊と麹町、渋谷、市川の三憲兵分隊長官舎に収容することを決めた。
 この夜、橋本が金竜亭に現われたのは午前三時。将来の兵器分配場所の偵察のため、アジトを転々としていたのだという。彼は部下の藤塚〔止戈夫〕らの密告によって陰謀が露見したことを知っていた。金竜亭への途中、郵便局に立ち寄って、関東軍の板垣〔征四郎〕にあてて電報を打った――「こと破れたり。同志一同縛〈バク〉につく。貴官の健闘を祈る」
 金竜亭では長〔勇〕と田中(弥)の二人が待っていた。その時、けたたましく電話が鳴り響いた。麹町憲兵隊長の大木繁憲兵少佐からだ。
「橋本中佐に伝えてほしい。事件は発覚した。後刻、憲兵が貴官らを逮捕に向かうから、用意していてもらいたい」
 かねてから橋本は、憲兵隊内部に強力な同志網を配置していた。大木もその一人だ。彼は拘束についての会議中に腹痛と称して席をぬけ出し、こっそり連絡したのだという。
「ついに来るべきものが来たか……」
 長と田中はいきり立った。橋本は憮然として、天井をにらんだ。
 そのころ私服憲兵は深夜の東京を八方に飛んだ。金竜亭には麹町分隊のベテラン曹長・小坂〔慶助〕が、部下をつれて逮捕に馳せ向かった。
「不浄役人の分際で無礼な。大木が出てこい……」
 長は短刀を抜いて、頑強に同行をこばんだ。が、橋本の直属上官・第二部長の橋本虎之助の名刺を示したので、しぶしぶ同行に応じた。名刺には将校としての身分を重んじて、あくまで〝保護のため〟であるむねのことわりが書いてあった。午前六時、橋本、長、田中(弥)の三人と憲兵を乗せた自動車は、大手町の東京隊長官舎に吸い込まれた。残りの同志も、それぞれ夜明けまでに三憲兵分隊長官舎に収容された。
 しかし、橋本ら急進分子を東京に置くのは危険である。新聞記者の目もうるさい。司令部ではこれを地方に分散することを決めた。橋本と根本〔博〕は稲毛、長と馬奈木〔敬信〕は市川、影佐〔禎昭〕、小原〔重孝〕、山口〔一太郎〕は横浜、和知〔鷹二〕、天野〔勇〕、野田(又)〔野田又雄〕らは宇都宮など各地の旅館に軟禁した。だがそれは軟禁というより〝賓客扱い〟。朝から酒池肉林のもてなしであった。しかも、その費用は、総務部長の梅津〔美治郎〕と作戦課長の今村のはからいで、参謀本部の機密費から支出されたのだという。全く驚いた話である。統制なき陸軍かな――岡村〔寧次〕が慨嘆したのも無理がない。
 稲毛へ軟禁後も、橋欣は革命断行の決意をひるがえさなかった。参謀本部からは部員を派遣して説得につとめたが、〝どうしてもやるんだ〟といって承知しない。弱り切った第二部長の橋本〔虎之助〕は、自ら稲毛へ出かけて説得にあたった。虎之助は〝ネコ之助〟といわれるほどの温厚な君子人。橋欣が陸軍大学を出て参謀本部のロシア班付動務将校(参謀見習)となった時のロシア班長だ。やんちゃものの橋欣はさんざん彼に厄介をかけた。従って頭が上がらない。その恩人に涙を流しながら懇々と説かれると、ついに彼も我を折った。〝中止します〟と言明せざるを得なかった。軟禁十五日間、橋欣は釈放された。そして、一味に対する行政処分が決まった。橋本、長、田中(弥)は重謹慎。その他のものは口頭の訓戒で事済みになった。やがて十二月の定期異動が発令された。首謀者の橋本は姫路の野砲兵連隊付に左遷された。当時、姫路の第十師団は、満州派遣が決まっていたので、ていよく満州へ追放されたわけ。田中(弥)はドイツ駐在、和知は関東軍勤務、小原はハイラルの特務機関へ、野田 (又)は善通寺の歩兵四十三連隊付に流された。「桜会」は崩壊した。結成以来一年そこそこであった。

 今村均に「名刺」で重大情報を知らせた人物の名前が記されていない。著者の石橋恒喜は、その人物の名前を知らなかったのだろうか。いや、知っていたにもかかわらず、あえて伏せたのではないだろうか。
「七 不発に終わった錦旗革命」の章は、ここまで。『昭和の反乱』という本の紹介は、このあとも続けるが、明日は、いったん、話題を変える。

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