礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ハンボウ天皇というのは何代の天皇ですか

2021-06-03 02:31:04 | コラムと名言

◎ハンボウ天皇というのは何代の天皇ですか

 重田定一著『史説史話』(弘道館、一九一六)から、講演記録「修正国定教科書に就て」を紹介している。
 本日は、その二回目。昨日、紹介した箇所のあと、改行せずに、次のように続く。

或所を旅行して居りましたところが、其土地の教員が私にハンボウ天皇と云ふのは何代の天皇ですと言つて聞かれてまごついたことがございます。ハンボウ天皇と云ふのは、ついぞ心得ない天皇であると思ひましたが、すぐと気が付きました。飯豊青尊【いひとよあをのみこと】のことで御座います。この御婦人は、顕宗【けんぞう】天皇・仁賢【にんけん】天皇御兄弟が、御位に即かれる前に、暫く御政治を御執り遊ばされたことがあります。この飯豊青尊を或書物には飯豊天皇と書いてあります。それを音読みにしてハンボウ天皇と申したのであります。さう云ふ天皇までも勘定をする日になると、随分数が多くなる。」位に即かれない天皇と云ふのは妙な訳でございますが、実はさう云ふ訳で位に即かれない天皇と申し上げる方があります。飯豊天皇などと書いた書物は御座いますが、政府で書きました書物にさういふことを認めて〈シタタメテ〉あるといふ訳では無いのです。」先きに申上げました天皇陛下を百二十一代といふのと百二十二代と云ふのは、沢山ございます。例へば宮内省辺り〈アタリ〉で出版になつて居ります書物だといふと百二十一代となつて居る。国史眼【こくしがん】などを見ると百二十二代となつて居る。大日本史に従つて数へると、やはり百二十二代となるのであります。何故一代の差が起つて居るかと見ますると、是は長慶天皇を加へるか加へぬかといふので起つた差であります。早い話が世間で毎日使つて居る懐中日記とか、さういふ類〈タグイ〉の印刷物を見ると、百二十一代とある。学校の教科書などには大抵百二十二代と書いてありました。どちらが本当かといふことは、時時家庭に於て起る問題であつたのであります。
    二、後醍醐天皇以後には従来正閏の論あり
 後醍醐天皇の御代から世の中が暫く乱れて居りました。此間の御歴代に付きましては、随分議論がありまして、謂はゆる正閏論【せいじゆんろん】、――どの天皇が正統であるか、本当の天皇はどなたであるか、――正閏論と云ふのかありまして、是はもう既に御承知のことと存じまするが,其時既に北畠准后親房【きたばたけじゆごうちかふさ】の書かれた神皇正統記【じんわうしやうとうき】といふ書物がある。此書物は申すまでもなく後醍醐【ごだいご】天皇より後村上【ごむらかみ】天皇に及ぶのが正当であることが論じてありますので、其後段段書物が出来まして、殊に大日本史の如きは明かに神皇正統記に従つて南朝が正統といふことを論じました。デ、さう云ふやうな書物を読んで居る人達は、申すまでも無く、後村上天皇が後醍醐天皇より引続いた正統の天皇であるといふことを少しも信じて疑はなかつたのでありますけれども、世の中はさうばかりも参りませぬ。実際に就てはズツと謂はゆる北朝の天皇といふのが正統だと思つて居る人も有つたのであります。
    三、従来の国定教科書の編纂方針 
 デ、文部省で教科書を国定に到しました時、即明治三十六年〔一九〇三〕以来、皇統の正 閏問題といふことには触れない。どちらが正か、どちらが閏かといふことは、国定教科書に於ては言はない。事柄の有つた侭に記述する。」と斯ういふ方針を執りました。従つて後醍醐天皇以後の所になりますといふと、南朝・北朝といふ名称を存して、南朝の天皇はどなた、どなた、どなた。北朝の天皇はどなた、どなたといふので、年表の如きでも矢張り併【なら】べ存しまして、年号も矢張り南北共に書いてあるといふやうな書き方であつたのであります。其結果としまして、例へば天皇陛下は何代の天皇であるかといふ御順位は、勘定をしなかつたのであります。世間では能く百二十一代の天皇だとか、百二十二代の天皇だとかいふことを申し上げて居るが、国定教科書ではそれを勘定しなかつたのであります。【以下、次回】

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