◎某事件に関連して囚はれの生活を送ること75日(野口藤七)
昨日の話の続きである。インターネットで、「杉森政之介」を検索したが、なかなか、それらしい情報にヒットしない。そこで次に、「野口藤七」を検索したところ、国立国会図書館デジタルコレクションがヒットした。これにより、野口藤七述『維新直言』(亜細亜青年同盟、一九四〇年二月一一日)という本があることがわかった。
野口藤七述『維新直言』は、今日、インターネット上で容易に閲覧できる。その「序」を見ると、「昨夏日英会談当時、某事件に関連して囚はれの生活を送ること、七十五日に及び、過ぐる十月初旬数名の同志を後にして、余一人自由の身になり、」などとある。一九三九年(昭和一四)夏に検挙され、同年一〇月初旬に、野口本人のみが釈放されたことがわかる。なお、「序」の日付は、「皇紀二六〇〇年一月」(一九四〇年一月)である。
野口藤七という人物が実在し、一九三九年夏に「某事件」に関与したことが明らかになった。ということであれば、「杉森政之介」という人物が実在することも間違いない。そう思って、再度、「杉森政之介」を検索してみた。
根気よく検索を続けているうちに、「裕鴻のブログ」の「大東亜戦争と日本(51)排英運動を煽動した三国機関の謀略」という記事がヒットした。ただし、そこに出てくるのは、「杉森政之介」ではなく、「杉森政之助」であった。
この記事で、ブログ主宰者の裕鴻さんは、大谷敬二郎の『憲兵』(新人物往来社、一九七三)を引用されている。その引用文のなかに、「杉森政之助」という名前があったのである。
さて、これらの協議の内容は厳秘に付せられていたが、新聞はこれが報道を大々的に取り扱い、陸軍と政府との激突を伝えていた。右翼は猛り出した。とくに陸軍に同調する右翼は、自らを枢軸派と称し、これに反対するものを親英派として攻撃を加えてきた。すでに(*昭和)14(*1939)年7月には清水清ほか七名による湯浅(*倉平)内大臣暗殺予備事件、杉森政之助(東亜同志会)の松平(*恒雄)宮相暗殺未遂事件の発生など、けわしい情勢を示してきた。そこにはテロの突出を予想せしめるものがあった。とくに海軍に風あたりが強かった。“親英米派を葬れ”“三国軍事同盟を即時締結せよ”“腰抜け海軍は国民の敵”などの立看板が、町の盛り場にならんでいた。
以上は、同ブログに引用された『憲兵』中の文章の一部である。文中、「これらの協議」とは、日独伊三国軍事同盟をめぐって、五相会議(平沼騏一郎内閣)を中心におこなわれた協議をさす。また、文中、(* )内は、ブログ主宰者・裕鴻さんによる補注である。
これによって、「東亜同志会」の「杉森政之助」が、松平恒雄宮内大臣を狙った「暗殺未遂事件」があったらしい、ということまではわかった。
※この話は、さらに続きますが、明日は、いったん、話題を「A級戦犯の遺骨」に転じます。