◎首謀者は清水清二、他に杉森政之介、野口藤七ら
昨日の続きである。『自警』一九四一年(昭和一六)二月号の記事「輝く功労記章伝達式」を読み、いくらか見えてきた点がある。一方で、あいかわらず不明な点も多い。
記事には、一九三九年(昭和一四)の七月、「清水清二ほか八名」が検挙されたとある。彼らは、「親英派の巨頭」に対して、爆発物等を使ったテロを計画していたという。
この記事は、大谷敬二郎のいう「湯浅内府暗殺予備事件」と「松平宮相暗殺未遂事件」とを、ひと続きの事件として扱っているようだ。すなわち、記事にある「清水清二ほか八名」というのは、大谷敬二郎のいう「清水清ほか七名」に杉森政之介を加えた計九名ということであろう。具体的には、清水清二(首謀者)、最初に検挙された中村敬一、次に検挙された渡邊勇司、山谷の木賃宿にいた野口藤七、同人を訪ねてきた杉森政之介、そのほかの四名の計九名である。
記事は、清水清二らがテロの標的としていた「親英派の巨頭」が誰であったかを明らかにしていない。一方、大谷敬二郎の著書は、湯浅内府、松平宮相の名前を挙げた上で、「天皇の側近」という言葉を使っている。内府(内大臣)・湯浅倉平は、二・二六事件当時は、宮内大臣として昭和天皇を支えたことで知られる。宮相・松平恒雄は、駐米大使、駐英大使を歴任した「英米派」の外交官である。いずれも、右翼急進派から、天皇側近の重臣、ないし、「親英派の巨頭」と目されて不思議はなかった。
このふたりのほかに、テロの標的とされていた重臣があったのかどうかは不明。ちなみに、内務大臣・木戸幸一は、二・二六事件当時、内大臣府秘書官長として昭和天皇を支えた。彼もまた、天皇側近の重臣であった。
大谷敬二郎『憲兵昭和史』(みすず書房、一九六六)にある「杉森政之助」、「清水清」という人名は、それぞれ「杉森政之介」、「清水清二」に訂正される必要があろう(同書の資料Ⅰ「憲兵昭和年表」についても同様)。『憲兵昭和史』は、学術論文に引用されることも多いので、この点について、注意を喚起しておきたい。
清水清二らが所属していた団体については不詳。これについては、判明し次第、このブログで紹介したいと思う。
記事の冒頭に、「日英東京会談に際し、所謂現状維持的親英派の巨頭を打倒し、天津租界問題を現地交渉に移して日英会談を有利に展開せしむべく」云々とある。こうした外交的・政治的背景の紹介は、しばらく日数を置いてからにしたい。
明日は、話題を変える。