◎絞首台は、昭和22年に初めて世間に発表された
手塚豊著『明治初期刑法史の研究』(慶応義塾大学法学研究会、一九五六)から、「近代日本の絞首台」という論文を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。
それでは絞架採用後、蘇生事件はなくなつたかどうか。明治十六年刊の「刑事問題」に、絞罪処刑後の死体を埋葬せんとする際「棺中物言イタル趣……棺ノ蓋ヲ取ラセ検視シタル処図ラサリキ〈はからざりき〉……蘇生イタシ居タル」者を「処刑済ノ者再ビ持帰ルモ如何敷〈いかがわしく〉……其侭埋葬」せしめた某二等巡査を、人命律故殺の条によつて禁獄三年に処した明治十四年七月七日の判例が掲載されている(12)。裁判所名、被告名は明記されていない。この判例は、設例であつて事実ではないようにも考えられる。しかし、翌十五年の「法律雑誌」二二九号に、読者が投書を寄せ「甲者アリ……絞刑ニ処シ柩〈ひつぎ〉ニ歛メ〈おさめ〉将サニ墳墓ニ埋メントス此時柩中声アリ……甲者果シテ蘇生セリ」という場合を仮定し、その者の法律的取扱いを質問していることから考えると、この判決は事実であり、社会の一部には知られていたものかも知れない。いま、その判決の真偽をたしかめ得ないのは甚だ遺憾である。なお、この質問にはボアソナードが次号に、詳しい回答を寄せ、その場合には特赦をおこない無期懲役にすべしとの意見を述べている。その後このような事件が起きたことを、私は知らない。しかし、このような蘇生事件は、当時、法律を学ぶ者の興味をひいたとみえて、明治十八年の「法律志叢」二六三号にも「絞ニ処セラレタル者蘇生シタル場合の質問が掲載され、次号で編集者が旧刑法第十二条「死刑ハ絞首ス」を根拠にして「生命ヲ絶ツ」までくり返し行うべしと回答しているし(16)、さらに明治二十五年の「日本之法律」四号・五号でも、同様の設問をめぐつて、再執行の可否に関して読者間に論争が行われている(17)。
絞架の布告当時、それは監獄図式(明治五年監獄則の附属法令)に編入されたのであるが(六年二月二十三日司法省布達)、この図式は明治十四年九月新監獄則の施行と共に廃止されたがら、絞架に関する成文法的裏づけはその時から消滅し たものと考えていい。その後絞首台に関する法令、指令の類は見当らないようである。従つて、絞架もしくはそれに準じたものが引きつづいて使用されたとしても、それはただ習慣上の制度と理解すべきであろう。
明治時代には死刑執行の際、新聞記者の立会を許したこともあり、それがため絞首台の説明が執行状況と共に新聞種になつたこともある。例えば明治二十九年九月十五日の読売は根室における強盜犯人の死刑状況を克明に述べ、絞首台の構造も説明している(18)。それによれば、布告当時の絞架とほとんど同じであるが、ただ各部の寸法が若干縮められている。しかし、明治四十一年七月の民刑局長、監獄局長通牒により、死刑の密行方針が一段と強化された結果(19)、それ以来絞首台の状況も一般には全く伝えられなくなった。
絞首台がはじめて世間に発表されたのは終戦後のことである。すなわち「アサヒグラフ」昭和二十二年十月二十九日十一月五日合併号に、「死刑台への道」と題して広島刑務所の絞首台が数枚の写真によって紹介されている。これによると、台そのものに屋根があること及び階段がコンクリートの道になり、台の高さが低くてその下が半地下室になつていること等を除けば、制定当時の絞架とほとんど変つていない。されば「絞架……今日用ふる所の器械即ち之である(20)」といつても不当ではなかろう。
死刑そのものの是非論はしばらく措き、死刑を是認する者も、その執行方法において、出来得るかぎり受刑者の苦痛を軽減することは、誰しも異論がなかろう。絞架制定後ここに約八十年、その基本形式にほとんど変化をみないことは、それがもつとも苦通少き絞刑方法と考えられるためであろう。
(12) 司法省編「刑事問題」(明治十六年)一七七頁、「刑事答案」一二九頁。
(13)(14) 法律雑誌第二二九号(明治十五年)・二三頁以下、第二三〇号・一四頁以下。
(15)(16) 法律志叢第二六二号(明治十八年)・一九頁以下、第二六三号・一一頁以下。
(17) 日本之法律第四巻四号(明治二十五年)・三四頁、五号・三七頁。
(18) 梅原北明「近世社会大驚異全史」三七五頁、布施弥平治「日本死刑史」二八一頁以下。
(19) 明治十五年一月の旧刑法施行以来、死刑の密行主義は確立されたが、立会官吏の許可により参観は許された(旧刑法附則第一条第二条)。明治四十一年の通牒は、その許可を実質的に禁止したものである。
(20) 辻敬助「明治監獄年譜」刑政第五〇巻五号・二四頁。なお、正木亮博士は、絞架について「大正年間までこれが用いられた」(「死刑」七四頁)といわれるが、大正時代に果して絞首台の改正があつたのかどうか、具体的資料をあげて御教示願いたいと思つている。
この論文で手塚豊は、明治六年二月二十日付太政官布告による「絞罪器械図式」は、「明治十四年九月新監獄則の施行と共に廃止された」と述べている。
しかし、一九六一年(昭和三六)七月一九日の最高裁大法廷は、この太政官布告が、今日もなお有効に存続していると判示した。
この裁判で原告側は、現行法制においては、死刑の執行方法については明確な規定が存在せず、したがって現行憲法下では「死刑」は違憲である、と主張した(憲法三一条「法律の定める手続」)。これに対し、最高裁大法廷は、太政官布告「絞罪器械図式」が今なお有効に存続しているとして、原告側の主張を退けたのである。
それにしても、日本の死刑制度を支えていたのが、「絞罪器械図式」という一枚の図式だったとは!
このあたりのことについては、拙著『戦後ニッポン犯罪史』(批評社、初版一九九五、新装増補版二〇一四)にある「今も生きる太政官布告●1961」を参照いただければ幸いである。