礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

排英運動と某重臣暗殺計画(1939)

2021-06-11 00:19:32 | コラムと名言

◎排英運動と某重臣暗殺計画(1939)

 一九三九年(昭和一四)に発覚した「某重臣暗殺計画」の話に戻る。すなわち、六月八日からの続きである。
 大谷敬二郎著『憲兵――自伝的回想』(新人物往来社、一九七三)は、持っていたような気がしたので、探してみると、すぐに見つかった。「杉森政之助」の名前が登場する箇所を、前後を含めて引用してみよう(一二九ページ下段~一三一ページ上段)。

 いわゆる世に枢軸強化という日独伊の三国軍事同盟案は十三年〔一九三八〕八月以来近衛〔文麿〕第一次内閣の五相会議によって討議されていたが、平沼〔騏一郎〕内閣はこれをうけつぎ、会議に会議を重ねていたが、同盟協力として対米英戦争を回避する日本案ではドイツに難色があった。陸軍とくに参謀本部は駐独大島浩大使の意見を容れて、完全な軍事同盟の締結を要望し、この陸軍の先頭に立って活躍していたのが板垣征四郎陸相であった。とにかく平沼首相は十四年〔一九三九〕六月五日に、この討議に一応まとまりをつけて内奏した。そして、その線に沿って大島大使、白鳥〔敏夫〕駐伊大使をして独伊と交渉せしめたが、イタリアは同意したが、ドイツは依然難色を示した。板垣陸相はさきの六月五日の決定には不満だったので、ドイツの不承諾をきっかけに、また問題をむしかえしてきた。米内〔光政〕海相は板垣と懇談し陸海の一致をはかろうとしたが成功しなかった。だが、陸軍の空気は一段と硬化し省部の緊急会議が開かれたり、三長官会議まで開いて対策を凝議〈ギョウギ〉し軍の態度を固めた。ちょうど有末精三駐伊武官が帰朝し現地情勢を伝えたので、これに力を得た陸軍は一層その態度を硬化した。
 八月六日板垣の平沼訪問をきっかけに五相会議は開かれ、板垣はさきの閣議決定をくつがえし無留保の軍事同盟締結を主張したが、有田〔八郎〕外相は国際情勢から、また石渡〔荘太郎〕蔵相は財政上の見地からこれに反対した。米内海相も中に入って一つの妥協案を示したが、この会議の結論は得られなかった。
 さて、これらの協議の内容は厳秘に付せられていたが、新聞はこれが報道を大々的に取り扱い、陸軍と政府との激突を伝えていた。右翼は猛り〈タケリ〉出した。とくに陸軍に同調する右翼は、自らを枢軸派と称し、これに反対するものを親英派として攻撃を加えてきた。すでに十四年七月には清水清ほか七名による湯浅〔倉平〕内大臣暗殺予備事件、杉森政之助(東亜同志会)の松平〔恒雄〕宮相暗殺未遂事件の発生など、けわしい情勢を示してきた。そこにはテロの突出を予想せしめるものがあった。とくに海軍に風あたりが強かった。〝親英米派を葬れ〟〝三国軍事同盟を即時締結せよ〟〝腰抜け海軍は国民の敵〟などの立看板が、町の盛り場にならんでいた。
 枢軸派と自称する右翼は、この同盟反対派を目して現状維持派として攻撃を集中した。たしかに、この場合、反対の中心は重臣、宮廷、海軍、外務省等であった。日本の上層部には日英同盟時代の日英親善に郷愁をいだいていたものが多く、新興ドイツには不信を示していた。このため、ドイツと同盟して英米との国交を軽んじ、これを敵に回すような三国同盟のいき方を嫌っていた。有田外相の外務省では、陸軍に通じ同盟を支持する白鳥一派の枢軸派は異端扱いにされていた。海軍は英米派とみるべきだが、そのころ石油その他の軍需物資の入手に熱心で、全体として南進政策を決定していたが、直ちに英米との戦争を誘発する政策は好まなかった。
 こうして同盟反対派は英米派、同盟支持派は独伊派、親独伊派と親英米派の対立、それはまた、英米派の現状維持勢力と独伊派の現状革新勢力との対決でもあった。かつての現状維持と革新との争いは、いまや、そのかたちを変えて、英米派と独伊派の対立となっていた。閣内では板垣の同盟論に対し対英米関係を考慮する米内、有田、石渡らの反対派が相争っていたのである。
 さて、この国の政治の場で枢軸問題が争われていたとき、時を同じくして、排英運動が燃え上がったのであるが、この排英運動の思想的背景はなんだったのか。あの爆発的な排英運動の盛り上がり、国民はたしかにこれに共感していた。だが、国民といっても排英運動に主として挺身していたのは右翼であった。由来、日本の右翼運動の主張は、排英米の思想に重点がおかれていた。アジア人のアジアを主張し、アジアの解放は、まず英米的勢力を東亜の天地より追放することにあるという見解に立っていた。だから彼らの対外政策の基調は、アジアからの英米勢力の駆逐にあった。しかし彼らの排英米思想は、対外策としてアジアから英米を追放するだけではなかった。国内より英米思想体制、英米勢力の排除を期するものであった。革新陣営からは、既成陣営はすべて英米体制の支配下にあると信じられていたからである。
 現状維持と現状打破の維新の戦いは、二・二六事件の悲劇で終熄したものではなかった。青年将校運動はほろんだが、これに代わって陸軍が革新運動の表面におどり出た。民間右翼は軍の陰に後退したかにみえたが、依然たる勢力を存続していた。

 大谷敬二郎は、一九三九年(昭和一四)当時における日本の政治的情況、思想的情況を、きわめてリアルに記している。なお、「湯浅内大臣暗殺予備事件」の検挙、および「松平宮相暗殺未遂事件」の検挙が、ここで大谷の言うように、同年七月のことだったとすれば、これは、平沼内閣時代(一九三九年一月五日~同年八月三〇日)の出来事ということになる。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2021・6・11(9位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする