◎山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
必要があって、月刊誌『自警』のバックナンバーを見ていたところ、その第二三巻第二号(一九四一年二月)に、「杉森政之介を検挙し得て」という文章を見つけた。
一九三九年(昭和一四)、警視庁特高二課は、「某重臣其の他」を暗殺せんとする計画をつかみ、その中心人物である「杉森政之介」を検挙した。しかし、この文章は、その暗殺計画について説明せず、杉森政之介なる人物についても、十分な説明をしていない。
ともかく、まず、その記事を引用してみよう。
杉森政之介を検挙し得て 特高二課 K 生
事の成就は一日に成るに非ず、必ずや幾多の段階を経て其の最後の日所謂成るの日に成ると聞くが、昭和十四年〔一九三九〕夏親英派の爆撃に某重臣其の他を暗殺計画中の杉森を検挙して現れた此の日一日の労苦の結果としては捨て難い思出が偲ばれる。天佑にも好結果を得たればこそ其の労空しからずとて自ら慰むるに足るが、其所迄に到達する過程の苦心は一朝一夕ではなかったものだ。常に捲土重来を期して頑張て居る常備態勢が特高常識ではあるが、今度の検挙で視察員の所作が其の視察責務に就て如何に間断無く継続的に伸展されねばならぬかを強く教へられた事は無い。
× × × ×
杉森の視察担当はK部長であつた。K君の視察は本件に限つた事では無くこの点満点であつた。彼が相手の性格的に来る純情と凝り切て居る勤皇心と、水戸学から仰慕〈ゲイボ〉して居る捨石的所業の礼賛者たる事実の見透しには狂ひは無かつたのだ。「水戸人起たざればこの難局を如何せむ」世を挙げて排英運動の巷に喧騒たるの時、彼杉森の悲憤を耳にしては特高警察人たるもの何ぞ安閑たり得むやだ。其の者の思想の表現は言動である。時勢を談ずるや必ず吐かれた言外の言「水戸人起たざれば」は何を語て居たか、予て〈カネテ〉の前提と認む可き一片の慨世詞などとは簡単に済まされぬ内容を包蔵して居た深い意図の閃きで在た〈アッタ〉のだ。
K君はこの語を聞き洩らさなかつた。そして「何かやるのは彼です」との報告は旣に三四月頃からの話であつた。爾来間断無く視察の眼は彼を練て張り廻されて行く。其の生活様式に日常の動作に行動の毎日毎日が詳細に積み重ねられて行くのだ。一日の行動も回を 重ねて其の行動目標を推知し判断し得るに到る。茫洋たる所為の真意を摑み得るの情況を示して来ると仕事は格別の持味を感じて、何か意図するらしい気配に一段の精進が視線の集注に加つて行くと「誰か資金の出し手は無いか、爆弾など何程でも俺が持て来るが」と放言して居る事実が聞へて来るのだ。愈々危険人物だと断ず可き域まで進んで来たK君の視察は徹底して居たのだ。
× × × ×
斯くて世相政局の動向と睨み合せての態度が肝要となるのだが、彼の持つ所属団体東亜同志会の合法面を注意し、其の企図する胸の底を窺知し行動の展開を凝視すると、為す可き時機其の人等が眼定されて治安確保の重大性に見逃し難い問題が招来するのだ。不安が来る、世相物情騒然たるの時に突如彼杉森は姿を消した。この事実もK部長は早急に知得して彼の行方を探し始めた。疑問解決の専一策は杉森を見出す事だが其の所在は杳として知れず不安は募るのみだ。交際関係も辿つたが其の姿は発見出来なかったが「点呼に帰て山に行つて来る」と家人に申残して出たことが判り、山を調べると栃木県下で満俺〔マンガン〕鉱で火薬使用中の鉱山が在り、主人の代理で現場監督を勤めた事実もあり其の挙動に一層の不審が増して来たので、急遽検挙の必要があり全班員一致で彼の捜査を開始した。依然として其の姿を得ぬので立廻り先きの総渫ひ〈ソウザライ〉を計画して其の足取りを迫ふ事にした。所轄署に早朝電話連絡して援助を求め、班員と協力して立廻り先きの寝込みを襲ふことにした。斯くて其の朝浅草区山谷〈サンヤ〉の木賃宿に野口藤七を訪れて誘ひ出し室外他出の刹那に検挙の凱歌を奏し得たのである。
日常視察対象の友交関係の知悉が如何に必要な事かこれ無くしては慢然大海に網を張て 魚を需むる〈モトムル〉の類であるが、K部長日頃の視察は将に定石的な成果を納め得たものであって 決して偶然では無い。視察精進の好結果と称す可きだと思ふ。
× × × ×
漁師が海を見るのと視察員が世相を知悉するのと其の呼吸は一様であるが、獲むとする魚類に依て其の対応策は千差万別である。要視察人の個々の性格夫々に対応して其の人物に適応するの態度所作が必要な事は云ふ迄も無い事だ。相手を知る為めには是が非でも其 の処を確保せねばならぬ。其の住所を摑み其の倚り処を知悉して行常〔ママ〕を永続的に而も警察的に視察すれば、其の者を通じて其の周囲に迄視野は自然に拡張されて行く。国家有事の備へとなる必要な事は常の備へだ、間断無き努力と精進だ。
尽した苦心と払つた努力が誘発したのが天佑であつて、訪れた杉森に誘はれて他出せむとする木賃宿の玄関先の出会頭〈デアイガシラ〉の捕物陣などとは又とない出来事だが、為す可きを為した其の心持に快き満足が味へるのだ、而て〈シカシテ〉次の大事に備へての精進が続けられて来る。治安確保は精進の一途のみ仕切られて行く。
以上が、その文章である。やたらに難しい言葉が並んでいる上、意味不明な言いまわしが多い。典型的な「悪文」である。
書いているのは「K生」。K生によれば、杉森政之介を検挙したのは「K部長」だったという。ここで部長とは、警視庁特別高等警察部長のことだろう。筆者のK生は、その部長を「K君」と呼んでいる。筆者は、かなりの「大物」だということになる。
この事件、あるいは杉森政之介という「危険人物」について調べてみたが、手元にある資料ではわからなかった。ただし、インターネットから、いくつか、重要なヒントが得られた。【この話、続く】