◎『猶太人問題を論ず』の「訳者はしがき」を読む
昨日の続きである。本日は、久留間鮫造・細川嘉六訳『猶太人問題を論ず』(同人社書店、一九二五年初版)の「訳者はしがき」を読んでみたい。かなり長いので(一~一〇ページ)、二回に分けて紹介する。
文中、「側点」=傍点が施された部分は、下線で代用した。
訳 者 は し が き
マルキシズムは、論理の遊戯を事とするデイレツタンテイズムではない、事物の皮相的釈明を能事とする職業的俗学でもない、恣ま〈ホシイママ〉に未来を構想するユートピヤでもない。マルキシズムは、現実なる問題の学問的解決である。
現実なる問題は、解かれねばならない問題である、それを解くことなくしては、歴史が一歩も進み得ない問題である。
現実なる問題の解決は、問題其物の本質中に固有する。問題の本質を徹底せしむることは、問題を解決する所以である。
歴史は、其問題の本質を事実上に徹底せしむることに依つて、其問題を事実上に解決し、其問題を事実上に解決することに依つて、其進展を継続する。
問題の学問的解決は、問題其物の本質に透徹することによつて、之を意識的に徹底せしめ、之を意識的に徹底せしむることに依つて、問題を意識的に解決せむとするものである。其目的は、従来無自覚的であつた歴史の行程を、それ自身の意識に眼醒めしむることに外ならぬ。
此根本的態度を離れて、マルキシズムは存し得ない。之を忘れてマルクスを論ずることは、生命を忘れて屍〈シカバネ〉を論ずることである。マルクスを誤ること之より甚だしきはなはなく、而もマルクスの誤解之より多きはない。
斯る〈カカル〉誤解の原因は、根本的には、現代の社会関係中に求めらるべきこと勿論であるが、マルクス研究の方法も亦、其一機縁をなさないとは云はれない。マルクスを学ばむとする者、多くは最初に彼の経済学批判(就中後年のそれ、即ち『資本論』)を繙く〈ヒモトク〉。経済学の批判は、彼の全理論的探究の成果である。従つてそれは、彼の全業績の頂点に位するに相違ない。而も他面に於て、全理論的探究の成果は全理論的探究を前提し、全理論的探究は復、マルクスに於ては、固有の問題と之に対する固有の態度とを前提する。此等の関係を明かにすることなくして卒然として『資本論』を繙くの危険は、前提を究めずして結論を読むの危険であり、設問を明にせずして答案に接するの危険でなければならない。其結果は、動〈ヤヤ〉もすれば、それが本来答案であることにさへ気付かないで了る〈オワル〉の虞〈オソレ〉がある。
斯る危険を避ける為めの唯一の方法は、経済学の批判に必然的に導いた、マルクス自らの思想の発展的過程を明にすることでなければならない。此意味に於て吾々は、彼の最初の経済学批判の序言中に述べられてゐる、次の言葉を十分に玩味する必要があると思ふ。
『私は、本書の著述に先ち〈サキダチ〉、一般的な序論を草稿した。併し私は、それを茲に発表することを差控へる。何故かと云ふに、後から仔細に回想してみると、これから証明せらるベき結果を其様に予想することは、私には不都合に思はれる、そして苟くも本私に附いて来やうと思ふ程の読者は、個々的なものから一般的なものに上つて行くことを決心せねばならないからである。之に反して、私独自の政治=経済的研究の道程に関する若干の指示は、本書の序文として恐らく似附かはしくうつるであらう。』(側点は訳者に依る。)
かくしてマルクスは、先づ最初に、彼の所謂『独自の政治=経済的研究の道程に関する』簡単な暗示的説明を与へ、其後に始めて、彼の研究の『一般的結論』としての所謂唯物史観の公式的叙述を与へてゐるのである。然るに、此『経済学批判』の『序言』に注意を遡らしむる者と雖も、多くは其公式的叙述の部分を重んずるの余り、上記の注意周到なる冒頭にも拘らず、其歴史的説明の部分をば軽々に看過するの嫌〈キライ〉がないでない。 併しながら、此史観の由来に対する十分なる顧慮なくして偏へに〈ヒトエニ〉其公式的叙述を詮索するの危険は、唯物史観を顧みずして資本論を論ずるの危険に等しいことを知らねばならない。何となれば、唯物史観其物が復〈マタ〉、固有の問題に対する固有の態度の必然的結論であり、斯る結論としてのみ、其本来の意義を有つ〈モツ〉ことができるからである。
たゞ憾む〈ウラム〉らくは、『序言』中に於ける歴史的記述は、マルクス自らが述べてゐる如く、単に暗示的な説明であり、彼の『研究の道程』上に於ける最も注意すべき事件への単なる指示に過ぎない。従つて此記述の意義は、其中に指摘せられてゐる事件其物の内容を埃つて、始めて徹底せられることができるのである。【以下、次回】
今日の名言 2021・6・18
◎マルキシズムは、現実なる問題の学問的解決である
久留間鮫造・細川嘉六訳『猶太人問題を論ず』の「訳者はしがき」にある言葉。上記コラム参照。「訳者はしがき」の執筆者が、久留間・細川のうち、どちらかだったのかについては不詳。