◎絞首刑は首しめ、縊死刑は首つり(手塚豊)
このブログでは、どういうわけか、「死刑」の問題を取り上げた記事には、アクセスが多い傾向がある。
だから、というわけでもないが、本日は、「絞首」に関する基本文献を紹介してみたい。それは、法制史家・手塚豊(一九一一~一九九〇)の「近代日本の絞首台」という論文である。初出は一九五一年(昭和二六)のようだが、ここでは、手塚豊著『明治初期刑法史の研究』(慶応義塾大学法学研究会、一九五六)に、「附録」として収められているものを紹介する。
なお、同書刊行時の手塚豊の肩書は「慶応義塾大学教授」である。
附録一 近代日本の絞首台
わが国の絞首刑は、すでに王朝時代の律に採用されており、明洽元年の仮刑律はそれを復活したものであるが、どんな器具を使用して行われたかは明らかでない。絞首刑の器具をはじめて詳しく記載しているのは明治三年十二月に頒布された新律綱領であつて、その巻首「獄具図」は次のように説明している。
《凡〈およそ〉絞柱ハ欅木【ケヤキ】ヲ以テ之ヲ為ル〈つくる〉。方一尺。長サ一丈。地ニ入ルコト二尺。地ヲ出ルコト八尺。銅版ニテ柱頭ヲ冒覆シ【オホヒ】、表面、下ヨリ上ホルコト六尺ニシテ、木枕ヲ施シ、其中ニ穴シ、柱ノ穴ニ当ル処、橢竅【ホソナカキアナ】ヲ鑿【サク】シテ、背ニ通シ、内ニ轆轤【ロクロ】ヲ設ケ、絞縄ヲ懸送スルニ擬シ、腰ニ当ル処、左右側面ニ鉄環ヲ施シ、腰縄ヲ収スル【シメル】ニ擬ス。表面、其下ニ鉄鐐【アシカネ】ヲ設ケ、足ヲ収スルニ擬ス。
凡絞縄ハ麻ヲ以テ之ヲ為ル。長サ六尺。項下【ノドシタ】ニ当ル処凡八寸、白布ニテ之ヲ包ミ、白韋(白のなめし革―手塚註)ニテ其外ヲ装裹〈ソウカ〉シテ左右ヨリ双合シ、端尾ニ鉄環ヲ施シ、懸錘ヲ鉤スルニ擬ス。
凡懸錘ハ鉄ヲ以テ之ヲ鋳ル。大ナル者ハ鉄鎖ヲ合セテ重サ十三貫、小ナル者ハ重サ七貫、並ニ鎖頭ニ鉤ヲ施シ、以テ絞縄ノ環ニ懸クルニ擬ス。
凡踏石ハ長サ二尺、博サ〔はば〕一尺五寸、厚サ三寸。
凡踏板ハ欅木ヲ以テ之ヲ為ル。長サ一尺六寸、博サ一尺、厚サ三寸、四板ヲ具へ、囚ノ長短ニ随ヒ添捨【ハヅ】ス。
凡囚ヲ絞スル、両手ヲ背ニ縛リ、紙ニテ面ヲ冒ヒ、率テ絞場ニ就キ、先ツ柱前ニ踏石、踏板ヲ畳ネ〈カサネ〉、囚ヲ柱ニ寄セ、項後【エリ】ヲ枕ニ当テ、板上ニ立シメ、次ニ絞縄ヲ項下【ノドシタ】ニ施シ、次ニ大懸錘ヲ縄環ニ鉤シ、次ニ踏板ヲ捨テ、次ニ小懸錘ヲ鉤シ、懸空【チウニカクル】凡三分時【ミニユート】、死相ヲ験シテ解下【トキオロ】ス。》
この機械は、絞柱と呼ばれ、詳しい図解が載つている。要するに、けや木の柱の前に受刑者を立たせ、その首にまいた縄を柱の穴から背後に廻し、それに二十貫の分銅をつるし、足の下の踏板をはずして刑の執行を終るのであるが、いかにも原始的な方法である。元来、絞首(絞死、首しめ)は、首のまわりに紐をかけて、その端の両方を引つぱりしぼつて首をしめる方法をいい、自らの体重で首をしめる縊死(首つり)とは異なる(1)。絞柱の方法は、名称は絞首刑であつても、その実質は縊死刑である。とすれば、絞首刑と呼ばれるものの内容が新律綱領以来、実質的に変化して現在に至つていると考うべきであろう。【以下、次回】
(1) 古畑種基「死刑の法医学」科学朝日・昭和三十年六月号・三八頁。
文中、「橢竅」は、「だきょう」と読み、楕円形の穴の意。これに、振られている原ルビ【ホソナカキアナ】は、「訓訳」と呼ばれているもので、文字通りの「読み」ではなく、「意味」(訓)を示している。同様に、「冒覆シ」の原ルビ【オホヒ】も、「訓訳」である。
明治初期の文献の中には、左右にルビがあって、右側のルビで「読み」、左側のルビで「意味」(訓)を示しているものがある。このことから、「訓訳」のことを「左ルビ」と呼ぶ場合がある。ただし、手塚豊が引いた「新律綱領」のルビが、実際には、どういう形になっていたかは不明。
引用部分で説明されている「絞首刑の器具」、すなわち「絞柱」がどんなものかは、図を見れば一目瞭然なのだが、言葉だけでの説明では、わかりにくいところがある。
かつて私は、『戦後ニッポン犯罪史』(批評社、初版一九九五)に、この「絞柱」の図を掲げたことがあった。もとは、布施弥平治著『日本死刑史』(日東書院、一九三三)の二七五ページに、「絞柱図」として載っていたものである。
布施弥平治の同著は、今日、国立国会図書館デジタルコレクションで、インターネット公開されている。関心がおありの向きに閲覧をおすすめする。
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