礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

生きかえつた本人が「生きかえらない」保証をした

2021-06-21 01:19:31 | コラムと名言

◎生きかえつた本人が「生きかえらない」保証をした

 手塚豊著『明治初期刑法史の研究』(慶応義塾大学法学研究会、一九五六)から、「近代日本の絞首台」という論文を紹介している。本日は、その二回目。

 この機械をはじめて作った野村という大工は次のように語つている(2)。
《初め校首台を造る時、方々の大工が呼ばれて入札だった。元は二十五円計りしかかゝらないものだが、厭だから百二三十円に札を入れた。三百円位まで入れた者があつた。私の所が一番下札だつたものだから、到頭私がやらなくてはならなくなつた。
 その絞首台を一番初め試験したのが元日で(明治四年か―手塚註)その時にはお玉ケ池の磯又右衛門と云ふ天心真揚流の達人が 自分で絞首台にかゝつて試めした。自分で台に登つて、縄を首に当てゝ足台を外してジワジワやつて居つたが、直ぐぐつたりとなつてしまつた。すると弟子がすぐ縄をはづして、湯だか水だか呑ませて背中を二三度たたいて「エイ」と活を入れると、すぐ生きかえつて、直つてしまふ。これならば大丈夫どんな者でも生きかえらないと云うた。》
 磯というのは、当時有名な柔術家であるが、生きかえつた本人が「生きかえらない」保証をしたのは面白い。この絞柱は受刑者の苦痛がはげしく、五年十月の鹿児島県伺も「臨刑ノ状ヲ聞クニ囚人空ニ懸ラレ命未タ絶セサル際腹肚起張血耳鼻ヨリ出テ其苦痛言フ可ラス」といつている(3)。また制定後二年にして、すくなくとも二つの蘇生事件を惹きおこしたことは、その器具がいかに不完全であつたかの証拠であろう。
 その一つは「明治新政譚」の明治五年八月の条に「度会【ワタラエ】県金剛坂村医師Nと云ふもの絞罪に所せられ死骸をば親類へ引渡しに相成りし後種々養生を加へしに蘇生したりと云ふ(4)」とある。度会県はいまの三重県の一部であるが、これに関する公文書を私はまだ見出しえない。
 他の一つは、明治五年十一月、四国の石鐵【いしづち】県(松山附近)に起つた同様の事件である。この方は処置に迷つた県当局の伺〈ウカガイ〉と司法省の指令とが判明している(5)。その司法省指令は「復タ論ス可キナシ直ニ本籍ニ編入スベシ」というのであるが、再度の執行を命ずることは惨酷と考えたのであろう。「本籍ニ編入」の意味は明らかでないが、おそらく従来の戸籍を復活せよというのであつて、あらたに出生と同じ取扱いをしたものではなかろう。この事件は、穂積重遠博士の「有閑法学」にも掲載され、明治初年の著名なエビソードの一つになっている。ただ博士が「罪状は重いが心事は同情すべしと云ふ所から絞刑後蘇生云々も事によつたら八百長ではなかろうか(6)」と推測しておられる点は、私は賛成しえない。後に述べる小原重哉談によると、蘇生事件は全国で三人ほどあつたというが、私は以上の二例以外には 同様の事件を知らない。【以下、次回】

(2) 同好史談会「漫談明治初年」四三二~四三四頁。
(3) 「司法省日誌」明治六年第二九号・七~八頁。
(4) 宮川孫一郎「明治新政譚」(明治二十四年)一一五頁。
(5) 近藤圭造「皇朝律例彙纂」(明治九年)四四枚表。
(6) 穂積重遠「有閑法学」一五六頁。

 若干、注釈する。絞首台の実験台になった「磯又右衛門」というのは、磯又右衛門正智(まさとも)のことであろう。また、ここに「天心真揚流」とあるのは、正しくは、「天神真楊流(てんじんしんようりゅう)」である。磯正智(一八一八~一八八一)は、天神真楊流の三代目で、神田於玉ケ池に道場を持っていた。講道館柔道を創始した嘉納治五郎は、この道場で磯正智に学んだという。また、磯正智の高弟に、井上敬太郎という人がいて、この人は、湯島天神下に井上道場と呼ばれる道場を持っていた。姿三四郎のモデルとされる西郷四郎は、この道場の出身である。民俗学者の柳田國男も、十代のころ、井上道場に通ったことがあるという。
『明治新政譚』から引用している部分に、「度会県金剛坂村医師N」とあるが、度会県金剛坂村(こんごうさかむら)は、現在では、三重県多気(たき)郡明和町(めいわちょう)の一部になっている。医師Nというのは、『明治新政譚』の一一五ページによれば、野田良延のことである。ちなみに、宮川孫一郎編『明治新政譚』(高橋省吾、一八九一)は、国立国会図書館デジタルコレクションで、インターネット公開されている。

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