◎花嫁が通る晩は村の若い者が通行を妨害
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その四回目で、第一部「村へ帰る」の4「ふるさとの人々」の後半を紹介する。
村人たちの生活は、敗戦後とはいえ、昔よりもはるかに悪くなっていた。農村ではヤミ米で百姓のふところがふくれ上っている頃のはずである。しかしこの村では、食糧を他に売るほどの余裕ある農家は、一部地主を除いては皆無といってよかった。大部分は出稼ぎの賃銀で、逆にヤミの雑穀を買い食いしていたようだ。しかも敗戦と共に経済機構が崩れ、出稼ぎの機会もなくなり、村人の多くは春を待って山菜野菜を取りにひしめいた。山菜に黄な粉をまぶしたものを主食として数十日の命をつないだと家庭はざらにあった。
一方、統制経済がつづいていたので、役場と農業会は景気がよく、殆んど毎日酒を飲み、飲んだ後はまたかならずといってよいほど、喧嘩が始まった。おとなしい村人たちの間にも少しずつ忿懣の声が上りつつあった。私はときどき村役場を訪ねたが、大てい昼の間から、宿直室で酒宴が始まっていた。その宿直室は数々の喧嘩の跡を残し、障子の骨はばらばら、紙は穴だらけで書記たちのいる事務室はまる見えであった。畳はこぼれた酒でしめり、煙草の火の跡をにぎやかに残していた。今、私がこうしている村長室は、その宿苽室を作りかえたものである。
村役場が景気がよいというのは、配給物資を横領したからだというのではない。酒の配給切符をもっていたからである。当時酒は冠婚葬祭用とか田植用などの配給物だけで、ヤミはひどく高かった。これに目をつけたのが、馬喰【ばくろう】たちである。牛や馬の商談が成立つと、売手と買手が一升ずつ出すのが慣習である。これがヤミ酒となれば大変である。配給酒だと同じ金で何倍もの量が飲める。そこで役場の宿直室に粜まって売貢の詫をつけ、決まれば村長さんどうぞ切符を一枚、ということになる。村長だけというわけにはいかないから、助役、収入役から、酒の好きな書記たちは皆あつまる。飲めない者は少ないが、そんなのはぽつんと事務室にいる。この酒の切符では、私の代になっても随分困らされた。村長自ら切符をにぎるのはどうかと思って、配給係にもたせた。しかしかならず村長さんどうぞ一枚といって来る。そんなものはもってないといっても絶対に信用しない。配給係にもたせても、村長の許しがなければというので、こっちへ廻って来る。ほとほと困ったことがしばしばであった。私がいないと助役に来る。村長や助役が係に任せきると収拾がつかない。毎日その辺にひき出されて、でれでれに酔うのである。敗戦直後のことで、婚礼などもあまりなかったし、葬式に飲むという風習もないので、配給の不正をいうものは余りなかったようだが、酔った挙句の喧嘩には、皆あきれはてていた。
役場で喧嘩がはじまっても、村長はにやにやしながら飲んでいて、止めようとはしない。喧嘩の大将ははじめのうちは、今の収入役、当時の下屋敷書記だったそうだ。この男は海軍に長くいたのち、カムチャッカの漁場歩きを長年やった男で、相当にはったりを利かすことも知っていたらしい。しかし彼の覇権もくつがえる時が来た、大川原正吉という書記にとって代られたのである。何でも役場で一度とり組んだら、その後五晩つづけて家を襲われたという。薪ざっぽうをもって夜中にやって来て、戸口のあたりを、「野郎出て来い。ぶち殺してやる」とどなりながら、がんがん叩き廻る。これが五晩つづいたら、遂にこの海軍上りのつわものも降参して、一升買って謝まった由である。その後は大川原の天下で、或るときは夜中に火の見に上って半鐘をじゃんじゃん叩き、部落のものを皆おこしたという。
役場の隣りは私の生家であり、その向いが農業会の事務所だった。ここも役場と並んで殷賑を極めた飲み場であった。ここには役場の大川原の弟がいて、兄に劣らぬ酒乱で、他人とはもちろん、しばしば兄弟でつかみ合っていた。喧嘩で負けると、やけくそになって、材木を道路にならべたり農業会の商品である炭俵の束を路上に幾つも投げ出したりする男であった。これにならったわけでもあるまいが、その頃花嫁が通るという晩には、村の若い者たちが、真暗い路上に丸太を沢山ならべて通行を妨害するのが、一つの流行となっていた。
第一部は、このあとに、5「改革の胎動」、6「製酪工場の計画と失敗」、7「岩手開拓公社の創立」の章があるが、すべて割愛し、明日は、第二部「農地改革」の紹介に移る。
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