礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

テーブルの上には「三種の神器」が置かれてあった

2018-05-28 04:36:05 | コラムと名言

◎テーブルの上には「三種の神器」が置かれてあった

 山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)から、「元満洲国皇帝との後日会見録」の節を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 昭和十五年(一九四〇)五月、溥儀の二回目の日本訪問の時だった。出発を前にして、帝室御用掛り吉岡安直は、溥儀に向かい、天皇にこう告げなければならないと命じた。天照大神〈アマテラスオオミカミ〉を満州国へ迎えたいと。溥儀は拒否したかったが、命令に盲従するしかなかったという。溥儀の言葉を聞いた天皇は、お望みになる以上、従わなければなりません。そうしごく簡単に答えたそうだ。かたわらのテーブルの上には、銅鏡、剣【つるぎ】、勾玉【まがたま】の三種の神器〈ジンギ〉が、前もっておかれてあった。天皇はその由来を説明して、溥儀にうやうやしく手わたした。これを祭ったのが、新京の建国神社〔ママ〕だが、参拝させられる屈辱にたえられず、人知れず暗涙にむせんだともいっておった。
 話題をかえ、いまの日本についてはどう思っているのか、と私が聞くと、日本軍国主義の復活をもっともおそれる。即座に溥儀はそういいはなった。さらに、中国侵略の計画案だったといわれている、有名な怪文書の田中メモランダムにも触れた。あの田中義一上奏文が書かれた頃、日台条約〔一九五二〕を結んだ吉田茂は、奉天総領事だったではないか。岸信介は、満州侵略の元兇であった二木三助【にきさんすけ】(東条英機、星野直樹、松岡洋右、鮎川義介、岸信介)の一人ではないか。溥儀の口調は、かなり激しくなった。
 最後に私が、日本にくる気はありますか、と質問すると、溥儀はしばらく考えてから、こういった。許されればいってみたい。以前に会ったことがあるので、できれば天皇と会い話したいと。
 家内が、弟の溥傑と浩夫人の近況をたずねた。弟は当地の植物園で元気に働いている。浩はお粥【かゆ】をつくる名人で、いま料理の本を書いているようだ。溥儀は笑いながらそう答えてくれた。これは、あとで私が耳にしたことだが、四十八歳になる浩夫人は、最近妊娠したという話であった。
 溥傑夫妻は、日本敗戦後に離ればなれとなり、二人の幼い娘を連れた浩夫人は、八路軍の捕虜となった。その後、国民党の捕虜として収容所生活を送るなど、さんざんの辛酸をなめたという。昭和二十二年〔一九四七〕一月に、浩夫人と二人の娘は、引き揚げ船で日本へ帰還した。したがって、浩夫人が再度中国へ渡り、天と再会できたのは、昭和三十四年〔一九五九〕に、溥傑が特赦されたのちのことだったのだろう。この間の昭和三十二年〔一九五七〕十二月に、当時、学習院大学生だった長女慧生【えいせい】が、ピストル心中事件で亡くなっている。私は浩夫人懐妊の話を聞いた時、その出生と死という、いわば明暗二つの事柄が、溥傑夫妻の数奇な身の上にむすばれてゆき、複雑な感情を禁じえなかった。
 溥儀はまた、次のようにも語っていた。自分が生まれかわったのは、まったく新政府のお陰です。現在は、自由で楽しい毎日を過ごしていますと。彼のそばには、中国政府派遣の通訳がついておる。だから、この発言は、半ば政府向けの挨拶だったのかもしれない。かくするうちに、溥儀のおしゃべりに圧倒されて、またたくまに時間がすぎてしまった。室内の時計は、すでに正午をかなりまわっている。私と家内とは、新婚生活の前途に幸いあれと祈って、溥儀のもとを辞した。
 昭和四十二年〔一九六七〕に、溥儀は世を去った。行年〈ギョウネン〉六十一歳。溥儀が希望していた天皇との再会も、はたされぬままに終わったことになる。

 本日、引用した箇所では、溥儀が昭和天皇から「三種の神器」を渡されたという話が興味深かった。ただし、このあたりの記述は正確さを欠いている。溥儀が事実を正確に伝えなかった、猪俣浩三の理解ないし記憶が正確ではなかった、もしくは、その両方があったと考えられる。
 ちなみに、この時、昭和天皇が溥儀に贈ったのは「剣」のみであり、銅鏡は、満洲国側が、あらかじめ京都の業者に調整させておいたものであったという。この銅鏡と剣は、帝宮内に設けられた「建国神廟」に安置されたという(ウィキペディア「建国神廟」)。

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1 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2018-05-29 00:29:23
以前に溥儀の自伝を垣間見たことがあったと記憶しますが、そこには敗戦後、中国共産党に捕まった時に「自分は罪を逃れるために全部日本のせいにした」というようなことが書かれていたと思います。
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