◎荻生徂徠、聖徳太子を激しく非難
月刊誌『四天王寺』の第二七四号「四天王寺復興記念特輯号」(一九六三年一〇月一〇日)の紹介を続ける。
この号を読んで、最も興味深かったのは、福島政雄が書いた「太子に関する論議」という文章であった。ここで福島は、聖徳太子についておこなわれてきた「是非の論議」を簡潔に紹介している。なお、福島政雄は教育学者で、『日本教育源流考――聖徳太子の教化と教育思想』(目黒書店、一九三六)などの著書がある(一八八九~一九七六)。
太子に関する論議
―非 難 と 讃 仰― 福 島 政 雄 ―文学博士―
太子様に対して是非の論議をやかましく述べ立てたのは徳川時代の学者であります。ひどく攻撃している者もあり、攻撃論を批判是正している者もあります。最初の攻撃論者は林道春〈ハヤシ・ドウシュン〉すなわち林羅山であります。羅山は春秋の筆法をもつて太子様を非難すると言つて、太子様が馬子の弑逆罪〈シギャクザイ〉をそのままに看過なされたことは非常なまちがいであり、春秋の筆法をもつてすれば、太子が崇峻〈スシュン〉弑逆の事を行われたと言つても宜しいと言つています。これに対して源安範〔森川安範〕という人が慨然として立言し、これを論駁して居ります。天地の間に万国はまちまちであるけれども、本朝ばかりは神徳くらからず、君威かわらず。然るに陪臣の身分で君上を議するというのは何事であるかと嘆息してやむことが出来ないと言つて居ります。
春秋の筆法というのを簡単に説明すれば、孔子の書かれた「春秋」の中に君主が殺された時、これを阻止することが出来なかつた者は、その者自身が君主を殺したと同じことであると言つてある筆法をいうのであります。然るに孟子の言に、「王者が無くなつて詩が亡びた、詩が亡びて「春秋」というものが出現した」とある。すなわち「春秋」は末世〈マッセ〉の産物である。我が国に適用せらるべきものではないと源安範は言うのであります。我が国は神武以来王者が無くなつたということはない。従つて詩は亡びていない。万葉、古今以来未だ嘗て亡びたことがない。春秋の筆法をもつて我が国のことを論ずるのは根本的に誤つているというのであります。そして太子様については次のように言つています。
上宮太子〈ジョウグウタイシ〉は天皇の御子〈ミコ〉であり、推古の朝には東宮〈トウグウ〉である。此のお方のことを陪臣が論ずべきものではない。十七条憲法では本朝万世の明かな政〈マツリゴト〉を示されている。太子が〔蘇我〕馬子を誅せられなかつたのはその過ちのようであるけれどもその時の勢〈イキオイ〉がわからない。
時の勢がどうにもならなかつたかも知れないというのでありましよう。正々堂々の論であります。羅山は自分が支那に生まれたならばよかつたと言つたと伝えられています。学者としては勝れたところがあつても、人物としては感心出来ない人間であります。日本的自覚などはまるで無かつた人間であつたと思われます。
次には物徂徠〈ブツ・ソライ〉の文章であります。これは擬家大連檄〈ワガヤノオオムラジノゲキニギス〉という題で物部守屋〈モノノベ・ノ・モリヤ〉の檄文という形にして、太子を小慧の人、天位を覬覦〈キユ〉する人、などと飛んでもない悪口をならベ、我が国の皇祖すなわち天照大神〈アマテラスオオミカミ〉を女子であるというのも太子の作りごとであると言い、全く戯れ言〈タワムレゴト〉を言つているかと疑われるような文章を書いているのであります。徂徠は豪放な人であつたと言われますので、その豪放な心から戯れ半分に此のようなことを文章に書いたのでありましよう。これは真面目に論ずるような価値のあるものではありません。徂徠の高弟太宰春台〈ダザイ・シュンダイ〉の「弁道書」は本朝には道という事が無いなどとけしからぬことを言つて居りますが、併し太子については「本朝において厩戸〈ウマヤド〉の功は制作の聖〈ヒジリ〉ともいうべき人にて候、されば聖徳太子と謚〈オクリナ〉せられた事も虚名にあらず候」と言つています。それで徂徠は真剣に太子を論じたのではなく、物部氏の子孫であることから戯れの文で太子をからかつたのでありましよう。それにしてもけしからぬ事であります。【以下、次回】
文中、「物徂徠」は、荻生徂徠〈オギュウ・ソライ〉のこと。荻生徂徠は、本姓が物部〈モノノベ〉であったことから、物〈ブツ〉を自称したことがあった。
朝鮮でもそれより早く、満州人の清よりも中華思想を受け継ぐべきは自分たちという意識があったようでのちの大院君の排外主義などもこの考えを受け継いでいるものと推測されます。
しかし、中世から近世に至るまで伊勢の神は男神ととらえられていた節があり、有名な安政の大地震の鯰絵にも天照大神はスサノオの命に要石でナマズを封じるよう命令している男神として描かれています。