礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山鹿素行、『中朝事実』で聖徳太子を賛美

2018-07-08 03:35:44 | コラムと名言

◎山鹿素行、『中朝事実』で聖徳太子を賛美

 月刊誌『四天王寺』の第二七四号「四天王寺復興記念特輯号」(一九六三年一〇月一〇日)から、福島政雄「太子に関する論議」を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して次のように続く。

 徳川時代に太子様の真生命を或る程度まで認めて譖美しているのは山鹿素行〈ヤマガ・ソコウ〉の「中朝事実」であります。素行は仏教を嘉してはいません。仏教は異教であつて、西域諸国などには宜しいであろうが我が国には施すべからざる教であると言つて居ります。太子が憲章に示されている道は本来我が日本の神聖の道であると言うのであります。太子が仏教を信じ給うたのは大に宜しからぬことであるけれども、しかも太子は実はその大本において神聖の道を明かにし給うたのであつて、西域の教を行い給うたのではないと言っています。憲章の中に三宝の説があるけれども、此の一の非をもつて他の十六条の是を掩う〈オオウ〉のは君子の志にあらずと言つて居ります。弑逆事件については太子に罪があるとは考えていますが、併しこれを太子の罪であるとして徒らに〈イタズラニ〉攻撃するのは私心私言であると言つています。孔子が伯夷や管仲のことをほめているのは孔子の公心の発動であり、天地の道寛大にしてよく容るるという心境であると言つています。併し拭逆について支那の不当な事件に比べるなどして、我が朝のことにおいて素行はなお不徹底であります。それで素行の「中朝事実」における太子賛美論にはなお無理があると思われるのであります。
 徳川時代に太子様を非難している者の欠点は、史実を明らかにするという方面に努力しないで、単に主観的偏向から論を立てているという点にあります。然るに長崎の僧一風〈イップウ〉という人があって明和四年〔一七六七〕春三月に「聖徳太子実録」を公にし、日本書紀によつて太子に関する史実を明かにし、太子のために寃を雪ぐ〈ソソグ〉と言つて居ります。
 先づ聖徳太子を不義不忠の人に落し国史に違う〈タガウ〉て評する事は有るまじき事である。日本紀の文を熟覧して過ちが無いようにせよと言つて、道は絶対であり、教〈オシエ〉はその絶対について相対的に立てられたものであるから、世間の実際事は臨機応変の権道をもってせねばならぬという場合も多くあり、書にのせた教は有限のものであるから、必ずしもこれをもつて律すべきでないと言つています。それで我が好む所の教をもつて容易に聖徳太子を是非してはならぬというのであります。
 欽明天皇紀から抜萃を起して、蘇我と中臣〈ナカトミ〉とが争つたのであつて、神道と儒仏との争ではないということを断言し、敏達〈ビダツ〉天皇紀に入つて蘇我と物部とが勢力争いをしたのであつて、蘇我も仏法の道理を深く学びて信仰にはあらずと見ゆと評しています。用明天皇紀に入つて、蘇我と物部との争が更に激化し、宮庭において血を流すようになろうとする次第の文を出し、此の史実をよく考察しないで、唐土の儒道の書ばかりを信ずるので正論が立たないと述べています。また太子はその時御年僅かに十六才であつて争いの渦中には入り給わず、権臣らは穴穂部皇子〈アナホベノミコ〉や彦人、竹田皇子を問題としたのみであると言い、太子に此の時の事に関する責任は無いことを明かにしようとしています。
 崇峻〈スシュン〉天皇紀に入つていよいよ物部と蘇我との争が宮廷において血を流すに至つたことを述べ、太子は軍の後に随うとあるので、此の争は太子の御心から出たことではないと明言しています。そして弑逆事件については次のような批判論をしています。
《按ずるに馬子天皇を弑せし事、本文只如是〈ニョゼ〉にして諸皇子百官の驚き憤りたる事もなく、剰へ〈アマツサエ〉即日に葬り奉りし事も後世を以ては計りがたき有さま、誠に本意なき〈ホイナキ〉事なり。臣強く臣弱き時勢能々〈ヨクヨク〉考へて聖徳太子の徳行を知るべし。此処天下の治乱王公より下〈シモ〉万民の苦薬分るる処にして、聖教の規模に縛せ〈バクセ〉られては会しがたき処なり。後生深く可考。》
 また長崎皓台寺〈コウタイジ〉の一丈和尚の著述「富小川〈トミノオガワ〉」という書に、太子は御威勢は遥に馬子に劣り給う故に、馬子の弑逆の事については色ぶりにも出し給はず、遠い慮り〈オモンバカリ〉の下に馬子に対し給うたので馬子も心ゆるして、太子も御無事であり、浪風も立たないで世は静まつたのであるという意味のことを述べていることに関説し、併しそれだけの論では不満足の由をあらわして次のように述べています。
《尤も太子の馬子を立置かれたる処においてはなお甚深の道理あるべし。ここは人々の見識ほどならでは見えぬ処なり。容易に是非すベからず。庸儒〔凡庸な儒者〕の論は一隅のみなり。》【以下、次回】

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1 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2018-07-10 10:34:19
 山鹿素行の言うように、蘇我と物部の対立とそれに伴う皇族たちの争いは、崇佛派、廃佛派というようなものではなく朝廷を巻き込んだ豪族間の権力闘争と見るべきが妥当であると考えられ、高校の教科書などもそのように書き換えられるべきと考えられます。
 またこのことは、物部守屋の邸宅跡から法具が発見されたことや子孫に弓削道鏡が出ていること、中臣鎌足が長男の定恵を出家させている点からみても明らかです。
 蘇我も太子も佛教が神道と異なる別の宗教であるとは考えず、「蕃神」とあるように異国の西域の新しい神と考えただけであって受け入れは極めて自然的であったと推測されます。
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