礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

田中光顕は81歳の時に子供を作った

2018-04-01 07:42:02 | コラムと名言

◎田中光顕は81歳の時に子供を作った

 本日は、政教社(静岡市深草)から刊行されていた月刊誌『うわさ』通巻一六八号(一九六九年八月)から、山雨楼主人による「宝珠荘の偉人②」という文章を紹介してみたい。これは、先月紹介した「宝珠荘の偉人」(同誌通巻一六七号、一九六九年七月)の続きにあたる。
 山雨楼主人とは、ジャーナリストにして歴史研究家であった村本喜代作〈ムラモト・キヨサク〉の筆名である。ここで、「宝珠荘の偉人」とは、明治・大正・昭和の政治家で、静岡県蒲原町〈カンバラチョウ〉に居を構えていた田中光顕〈ミツアキ〉を指す。

 静岡県近代人物考(12) 山 雨 楼 主 人
政治家の巻(7)
(山雨楼主人著「交友七十年」より)

 宝珠荘の偉人
 私〔村本〕が広瀬〔倹三〕を伴って田中〔光顕〕と初対面した時、田中は挨拶に出た中年の美しい上品な婦人を紹介して、
「これは僕のめかけだが、よろしく」と真面目な顔で言った。
 田中は、旧主〔佐川領主〕深尾鼎〈カナエ〉の娘と結婚し、それが早世して以来、正式の妻というものを迎えなかったが、松下軍治〔「やまと新聞」経営者〕に紹介されて小林孝子と結婚したため、世間の話題となって新聞紙上を賑わした末、離婚沙汰に終って以来正妻を入れなかった。僕の妾だと私に紹介した中年の婦人は、中村邨子といって元新橋芸妓だった。九州の某大藩の家老の家柄に生れたとかいって、美貌の上に理智的な聡明さがあり、筆蹟の美事なこと、文章の巧みなこと、音楽、絵画にも堪能で、割烹の才にも勝れ、稀に見る器量人であったことは、後になって判った。応接室に安置してあった田中の胸像の作者を尋ねたら、
「これは家の妾が作った」と説明した。その素人放れした作品にも驚いたが、不相変〈アイカワラズ〉平気で妾という言葉を口にする田中にも驚いた。ある時私が、
「中村さんを紹介するのに、めかけという言葉を使うのは止めた方がよい。客の方が赤面する」と話したら、
「あれは正妻ではないから妾という以外に紹介の致しようがない」という。そこで私が、
「世間普通、そういう場合には家の女衆〈オンナシュウ〉とか、家の女がとかいうのです」と話したら、田中は黙って笑いながら聞いていたが、それ以来めかけという言葉は絶対に口にしなかった。鉄筋コンクリート造りの三階建倉庫の地下室に、イロハ別にして沢山の書画を整理して陳列してある書画室に、イロハ別でない番号の書画棚があって〔ママ〕。そこに大雅堂〔池大雅〕の松の名幅をはじめ沢山の書画が入れてあったのを見た私が、
「これはどうして別にしてあるのですか」と聞いたら、
「ああ、それかね、家の女に僕がくれたものだ」と答えた。私の話したことを忘れずに、あれ以来めかけという言葉を打切ったことがこの時ハッキリ判った。英雄色を好むというが、英雄ならずとするも色を嫌うものはない。田中は八十余才にして猶且〈ナオカツ〉自分の歯というものを持っていた。食慾も当時三十代の私に向って、
「モッとたべ給え、君は少食じゃのう」と言ったくらいで、非常に健啖であったから、八十一才の時に子供を作った旺盛な精力も成程とうなづかれる。ある人がそれは余人の種だろうと悪評したが、その子供は田中に寸分違わぬ生写し〈イキウウシ〉であった。
 三橋四郎次〈ミツハシ・シロウジ〉と共に米国に渡って歯科修業をした田辺花子の送別会が静岡俱楽部で開かれた時、その席上私は田中光顕のあの壮者を凌ぐ健康が驚くベき歯の持主であることに因由すると話したことがある。田中の長寿は歯の堅牢にあったと私は今でも自信している。田中の好色は小林孝子事件以来世間の評判になったが、これは彼が女色に対してそれが当然な生理的要求であると考え、特别に隠したり憚ったりせぬために、実質以上に宣伝されたのである。吉田松蔭〔ママ〕の話をしている時に、田中が突然、
「君は妻君といつ交接するか」と真顔に質問して来た。余り突然だったので一寸面喰らった私が、
「無論就寝後です」と答えると、「松蔭は暁の天明に一発を放つと書いているが、僕は暁に限ったことはないと思う。あれは当然の生理要求であるから、気分が最高潮に動いた時が適時であって、昼夜の別をつける必要はない」と説いた。田中の風呂場には寝台があって、そこでこの生理要求を果す癖があったというが、ある時執事の兼康固堂が急用があって風呂場に田中を訪ね、入口の戸を開けるとちょうどその癖が出ておった時だったので狼狽して戸を締めると、
「兼康か、かまわん、かまわん」と中から声が掛った。いくら構わんと言ったからとて、恥しくて入れませんよとは、固堂の私への述懐であった。田中には異腹の子が沢山あったが、生れた子供は全部引取って孫として届け出た。【以下、次回】

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