◎A級戦犯の死刑執行に、なぜ「絞首」が選ばれたのか
木村亀二の『死刑論』(アテネ文庫、一九四九)を読んでいるうち、にわかに、「死刑」についての関心が強くなってきた。そこで、図書館に赴き、二冊ばかり本を借りてきた。
一冊は、菊田幸一氏の『新版 死刑――その虚構と不条理』(明石書店、一九九九)。この本には、木村亀二の『死刑論』が、たびたび、引用されている。また、同じく木村の『断頭台の運命』(角川書店、一九五三)や、『新憲法と刑事法』(法文社、一九五〇)という本も引用されていた。いずれ、これらの本も参照しなくてはなるまい。
もう一冊は、櫻井悟史〈サトシ〉氏の『死刑執行人の日本史――歴史社会学からの接近』(青弓社、二〇一一)。この本の、一一八ページ以降に、興味深い指摘があった。巣鴨プリズンでA級戦犯が処刑されたのは一九四八年一二月だが、同年の三月に、最高裁が「死刑合憲判決」を出している。もしこの判決がなかったら、国内で戦犯を処刑するのは難しくなったであろうという指摘である。ともかく、当該部分を引用してみよう。
一九四五年(昭和二十年)十一月一日、連合国軍は戦犯収容のため東京拘置所を接収して巣鴨プリズンと改称した。翌四六年四月二十六日、由利敬〔元・大牟田俘虜収容所長〕が死刑になったのを皮切りに、巣鴨プリズンでは多くの死刑が執行されていくことになる。四八年十二月二十三日には東条英機らA級戦犯七人が絞首刑になっている。これに先立ち、同年三月十二日に死刑合憲判決が出た。このときの判決が現在でも死刑判決を支えているのだが、もしこの判決で死刑が違憲とされていたならば、少なくとも日本国内での戦犯の死刑執行がおこないにくくなっただろうことは想像に難くない。
なお、誰が戦犯の死刑執行を担ったかは定かではない。巣鴨プリズンの教誨師〈キョウカイシ〉である花山信勝〈シンショウ〉の記録では、由利敬の遺体は死刑が執行された約二十五分後、長さ六尺(約百八十センチ)、高さ一尺五寸(約四十五センチ)ぐらいの棺桶に入れられて、四人のアメリカ兵によって霊柩室へ運ばれてきた、とある。だが、アメリカ兵が死刑を執行したかどうかはわからない。ただし、銃殺刑になった尾家刢〔フィリピンのネグロス島の元・警備隊長〕はアメリカ軍騎兵連隊の射撃場で銃殺されたようであり、このときはアメリカ兵が死刑を執行したと思われる。しかし絞首刑の場合も、同じく、アメリカ兵が執行したかどうかは定かでない。ただ、日本人の刑場への立ち入りは禁じられていたらしいので、おそらく絞首刑もアメリカ兵がおこなっていたのだろう。
戦犯の死刑のために、巣鴨プリズンには五つの絞首台が新たに設置された。当時巣鴨プリズンで働いていた職員によれば、当初は戦争受刑者に刑場設置が命じられたようだが、受刑者側がこれを拒否したため、アメリカ軍に徴用されていた日本人の巣鴨プリズン職員が、日本の刑場にならってアメリカ軍が設計した絞首刑台を設置することになった。巣鴨プリズンでの最後の死刑は、一九五〇年(昭和二十五年)四月七日におこなわれ、設置された五つの絞首台が取り壊されたのは、巣鴨プリズンが日本側に移管される少し前の五一年十一月十六日の朝だった。また、巣鴨プリズンの管理が日本側に移管されたのは、五二年四月のことである。
最高裁が、一九四八年三月に、「死刑違憲」の判決を出していたしても、A級戦犯に対する死刑は、免れなかったであろう。しかし、同年一一月の判決で、A級戦犯に「絞首刑」(death by hanging)が言い渡されたことについては、最高裁の「死刑合憲」判決が影響している可能性がある。
東京裁判法廷は、A級戦犯に対し、「銃殺」あるいは「斬首」等の判決を下すこともできたわけだが、あえて「絞首」を選んだのは、日本において、現に「絞首」による死刑が執行されており、それについて最高裁が「合憲」の判断を示していたから、と考えるのが妥当ではないのか。
ちなみに、日本で採用されている死刑の執行方法は、厳密には「絞首」でなく、「縊首」〈イシュ〉である(菊田幸一『新版 死刑』)。
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