◎憲法学者・穂積八束の「国家全能主義」(1890)
昨日のコラムに対して、アクセスが急伸した。そこで本日も、穂積八束の論文を紹介する。明日は、話題を変える。
本日、紹介するのは、『国家学会雑誌』第三九号(一八九〇年五月一五日発行)に掲載されている「国家全能主義」である。その末尾の部分を読んでみたい。
原文は、カタカナ文で、濁点は使用されておらず、句読点はほとんどない。これをひらがな文とし、句読点・濁点を補ったが、それを除けば、基本的に原文のままである。
【前略】方今〔ただいま〕の立憲君主は「君臨すれども政治せず」と云ひて、社会劣族の国会多数の為めに圧制せらるゝを傍観すること能はず〈アタワズ〉。進みて国家と同一躰を為し、国家の生存栄枯を自己の生存栄枯と為し、全能の主権を把持して、以て社会劣族の天賦の保護者たるの天職を尽すの決意なかるべからず。仏〔フランス〕十四代のルイは、「朕は国家なり」と云ひて軽躁論者の非難を招きたり。然れども、従来、仁君明主は「朕は国家の僕なり」(フリードリヒ大王の語)と云ひつゝ、其実〈ソノジツ〉は、朕は国家なりと云ふの政策を採れり。何となれば、社会各層の利害の軋轢〈アツレキ〉は、社会の上に超然たる全能の主権あるにあらざれば、之を調和すること能はざればなり。若し〈モシ〉彼の〈カノ〉立憲派の説を妄信し、国会をして国家は我なりと謂はしめば、治世の困難は終に〈ツイニ〉救ふべからざるに到らんとす。国会は、討論して政治せず。政務の責と全能の主権は、君主に在り。如斯〈カクノゴトク〉にして、社会の貧苦を負担するの劣族も亦、神聖なる君主の全能権に倚頼〈イライ〉して、社会優族の圧制を免れ、悲哀なる境涯を離れて、社会福利の分配に当ることを得べきなり。史家トライチケ曰く「英国の社会は貴族的なり。故に国会政治を実行することを得。民衆的の社会は、君主政治にあらざれば、統治することを得ず」と。是れ真理の声なり、実験の〔実際の経験にもとづく〕声なり。
立憲君主は、「社会劣族」が「社会優族」のために制圧するのを傍観しているわけにはいかない。立憲君主は、「社会優族」と「社会劣族」の双方から超然とし、その全能権を発揮しなければならない。これによってはじめて、「社会劣族」は、「社会優族」の圧制から逃れ、社会福利の分配に預かることができる、と説いている。
冒頭に、「方今の立憲君主は『君臨すれども政治せず』と云ひて」とあるが、この「云ひて」の「て」は逆説である。
*2015年5月8日のUnknownさんのご指摘を受けて、本文を誤読していたことに気づきました。これに伴い、解説的部分の内容を訂正しました。Unknownさん、ありがとうございました。2015年5月9日記。
歴・低所得層が多いことは知られていますが、比較的富
裕な若年層が一体何を支持しているのかよく判りません。
とりわけてリベラルという訳でもなさそうですし。
また、いわゆる無党派層と呼ばれる人が一体何を考えて
いるのかもよく判りません。政策だ何だと、その時々によ
ってもっともらしい理屈をつけてはいますが、大概はニュ
ースの報道などに影響されているのではないでしょうか。
やはり、そういった点からしても報道陣の取材の与える影
響は甚大なものなので、心して取り組んでもらいたいと思
います。