◎清水幾太郎、朝鮮人虐殺の現実に接する(1923)
昨日の続きである。社会学者の清水幾太郎の『社会学入門』(カッパブックス、一九五九)から、清水が、関東大震災の体験を語っているところを紹介している。本日は、その二回目。
私の全体が悲しみであった 泥沼を渡って、亀戸の方へ逃げて行くうちに、私たちは、群集というか、流民というか、巨大な無組織集団に融けこんでしまった。
私たちは、素裸〈スッパダカ〉同様の姿で、枕とかお櫃とかいうナンセソスた品物を大切に抱えて、町中一杯の流れを作って、まだ焼けない町をノロノロと動いていく。日は幕れてしまったが、一面の大火事のために、そう暗くはない。誰も黙っているが、みな家を失い、財産を失い、肉親を失っていることをたがいに知りあっている。私の妹や弟もいつか行方不明になっているのである。私たちは病んだ獣の群のようであった。私の心が悲しいと感じるよりは、私の全体が悲しみなのである。前後左右は見知らぬ人間ばかりなのに、私は、その人たちといっしょに、甘い暗い感情、それを抜け出るのが辛いような感情にひたされていた。この人間の流れの中から、時々、ウォーという叫びとも呻き〈ウメキ〉ともつかぬ声が起こる。それを聞くと、私の身体の底の方から自然にウォーという声が出てしまう。
朝鮮人の血 〔九月〕二日の夜、私たちは千葉県市川の国府台〈コウノダイ〉の兵営に収容されて、毎日、行列を作って握飯をもらい、夜は馬小屋や営庭の芝生で眠った。父は、行方不明になった妹や弟を探すために、毎日、東京の焼跡へ出かけて行った。
あれは三日か四日の夜中であったと思う。馬小屋で寝ていた私は、水が飲みたくなって、洗濯場へ行った。洗濯場には、夜中なのに大勢の兵隊がいて、みな剣を洗っている。その辺は血だらけである。ピックリしている私に向かって、一人の兵隊が得意そうに言う。「朝鮮人の血さ。」私は腰が抜けるようにおどろいた。朝鮮人騒ぎというのは噂には聞いていたが、兵隊が堂々と朝鮮人を殺すものとは思わなかった。だが、もし私が朝鮮人の友だちを持っていなかったら、それほどには感じなかったのであろう。しかし、どういう訳か、私は何人かの朝鮮人の友だちを持っていたし、彼らが暴動など起こすはずはないと思っていた。また、もし私が軍隊というものに親しみを感じていなかったら、それほど驚かなかったかもしれぬ。しかし、父が日露戦争に出征していたということもあり、小学校の六年生の時、兵営の参観に行ったりして、軍隊というものに気安い親しみを感じていただけに、私の受けたショックは大きかった。
私はゾッとした。軍隊は何のためにあるのか。軍隊によって守られている国家は何のためにあるのか。今から思えば、関東大震災のドサクサの中で、十六歳の私はこの大きな秘蜜の一部分に触れたのである。【以下、次回】
今日日韓会談を通じて早くよい関係に戻さなくてはなりません。