礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「性規範」の断絶、清水文弥と小野武夫

2014-06-03 04:35:51 | 日記

◎「性規範」の断絶、清水文弥と小野武夫

 昨日における「このブログの人気記事」を見ると、九位に「大正期農村の性的風儀」、一〇位に「乃木将軍と盆踊り」が入っている。おそらく、このふたつのコラムを読み比べてくださった方がいらしたのであろう。このふたつを読み比べると、清水文弥と小野武夫との間で、「性」的な規範意識に大きな断絶があることが見てとれる。
 清水文弥は一八五一年(嘉永四)生まれ、小野武夫は一八八三年(明治一六)生まれで、その年齢差は、三二歳である。当然、性的な規範意識に断絶があっても不思議はない。
 小野武夫は、一九二六年(大正一五)に刊行した『村の辻を往く』の中で、次のように書いた(当コラム「大正期農村の性的風儀」2012・6・24参照)。

 私等〈ワタシラ〉も子供の時に頬冠り〈ホッカムリ〉した村の若者が、祭りの晩に娘さん達の群から意中の人の手を無理矢理に引つ張つて、林の中に隠れたのを今でも覚えて居るが、此頃は警察の方で矢釜しい〈ヤカマシイ〉のと、学校教育が普及したので、斯〈カク〉の如き性の乱れは余程〈ヨホド〉でないと見られなくなつた。七月の盆踊りとても同じことであつて、前頃は月皎々〈コウコウ〉と輝く十五夜の夜、節〈フシ〉面白く踊り行く娘達に対し、異様の眼を光らす若者も少からずあつたのであるが、之〈コレ〉も今日では親達の監督の厳重なると、娘自身の反省とで余程改つて来た。

 小野は、こうした遺風を「性の乱れ」と呼んでいる。そうした遺風に対し、批判的な意識を持っていることは明らかである。
 一方、清水文弥は、一九二七年(昭和二)に刊行した『郷土史話』の中で、次のように書いた(当コラム「乃木将軍と盆踊り」2014・5・23参照)。

 盆踊といふものは、なるほど野卑な踊であろう。併し、また其の野卑であるところに盆踊の生命があり、価値があるのである。而かも、その野卑なる一面に於ては純朴なる地方的人情と風俗を、如実に伝へ得て余りあるものと云へる。/余談はさておき、我が那須郷地方では、盆踊は昔から盛んに行はれたものであつた。寺又は神社の広い空地〈アキチ〉で若い青年男女達が、陰暦十四日、十五日、十六日の三日間殆んど徹宵して踊りつゞけたものである。

 清水は、こうした遺風を「野卑」と呼んではいるが、批判しているわけではない。むしろ、「純朴なる地方的人情」等の言葉によって肯定している。おそらく、年代からいって、清水は、「若い青年男女」のひとりとして、そうした遺風を体験したことがあるのではないか。
 ちなみに、乃木稀典は、一八四九年(嘉永二)生まれで、清水とほぼ同世代、「性」に対する規範意識は、清水と近いものがあったと考えられる。【この話、続く】

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