礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

清水幾太郎の運命を決めた関東大震災

2014-06-07 04:24:45 | 日記

◎清水幾太郎の運命を決めた関東大震災

 社会学者の清水幾太郎〈イクタロウ〉(一九〇七~一九八八)に、『社会学入門』(カッパブックス、一九五九)という本がある。その第一章の第一節で、彼は、関東大震災の体験を語っている。本日は、これを紹介してみよう。

 私の運命を決めた関東大震災 「社会学など勉強せずに、医者になっていたら、今ごろはどうだろう。」今でも、折に触れて私はこう考えることがある。実際、万事が順調に進んでいたら、私は医者になっていたはずなのである。何も特別の理想があって、それで医者を志したというのではなく、小学校を卒業するころ、或る易者が私の顔をつくづく眺めて、「あなたは医者になりなさい。医者になれば、すぐ博士になるし、すぐ金持になる。」と言ってくれたのが原因である。
 当時も現在も、医者になれば、十中八、九は博士になり、金持になるらしいから、落ちついて考えれば、この予言は、私だけでなく、万人向きのものなのであろう。しかし、その時は、そうは考えなかった。その後、私は博士にはなったが、まだ金持にはなっていない。今でも、金に困るたびに、医者になっていたら、と考えてしまう。それよりも、家族に重い病人が出ると、医者になっておけばよかったのに、と後悔する。
 医者になるつもりで、全国から医者の卵ばかりが集まる独逸学協会学校中学という長い名前の中学に籍を置きながら、到頭、私が社会学へ方向転換をしたのは、一九二三年の関東大震災のためであった。私の家は東京の本所〈ホンジョ〉の片隅にあった。私は中学の三年生。九月一日正午、始業式を終えて家に帰り、暑い、暑い、と言いながら、パンツ一枚で昼飯を済ませた途端に、大地震が来た。私の家は、湿地を埋めたてた土地に建てられていたものらしい。家はたちまちつぶれて、私たち一家は天井の下敷きになってしまった。何分間かの悪戦苦闘の末、ようやく天井に穴をあけて、私たちは屋根へ這いでることができた。
 しかし、ホッとする暇もなく、そこへ火がまわってくる。私たちは、この穴の近くにあった、枕とかお櫃とかいう、ほとんどナンセンスなものを抱えて、火を逃げることになった。逃げるといっても、つぶれた家々のために道はなくなっているので、方々の工場から流れ出る汚水がたまってできた泥沼を渡って、まだ火のまわらぬ亀戸〈カメイド〉の方へ逃げた。真黒なネバネバした水は私の腹まで来た。
 私は東京の日本橋で生まれた。旗本であった祖父が禄を離れてから始めた「士族の商法」が失敗に失敗を重ねた挙句、私が小学校の六年生の時、私たちは本所のスラム街の真中で新しい商売を始めたのであった。こういう事情は、『私の心の遍歴』(中央公論社、一九五六年)に詳しく書いておいたから、今は述べない。大震災に見舞われたのは、新しい商売が何とか芽をふきだした時であった。私たちは、一瞬の天災のために、無一物〈ムイチモツ〉になり、東京の焼野原に投げ出されてしまった。
 もし父が官吏か会社員であったら、勤め先があるかぎり、月給がもらえたであろうが、あいにく、商人であり、商品はきれいに焼けてしまった。もし私たちが地方の出身であったら、田舎にしばらく身を寄せるという便宜があったであろうが、私たちは先祖代々の江戸っ子である。私たちは無一物で焼跡に生きるほかはなかった。【以下、次回】

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