◎清水幾太郎、大杉栄の虐殺に衝撃を受ける(1923)
昨日の続きである。社会学者の清水幾太郎の『社会学入門』(カッパブックス、一九五九)から、清水が、関東大震災の体験を語っているところを紹介している。本日は、その三回目。
大杉栄虐殺さる 兵営に一週間いて、私たちは焼跡へ帰った。営門をはいる時の私と、営門を出る時の私とは別の人間であった。焼跡に焼トタンで小屋のようなものを作り、私たちはここに住むことになった。未開人のような生活が始まった。始まって間もなく、この未開人はまた決定的な打撃を受けた。無政府主義者大杉栄(一八八五年―一九二三年)が憲兵大尉甘粕正彦〈アマカス・マサヒコ〉によって虐殺されたのである。
九月十六日、甘粕大尉は、東京憲兵隊本部において、大杉栄、妻伊藤野枝〈ノエ〉、甥橘宗一〈タチバナ・ソウイチ〉(当時六歳)の三人を殺した。また、九月五日ごろ、社会主義者平沢計七〈ケイシチ〉など十一人が亀戸警察署で殺された。大震災の混乱に乗じて、朝鮮人、無政府主義者、社会主義者が殺されたことは、それのすべてが私には大きなショックであった、しかし、大杉栄の場合は特別であった。当時の私は大杉栄の著書を愛読していたからである。
大震災の直前、神奈川県茅ヶ崎〈チガサキ〉の海岸へ遊びに行った時は、彼の評論集『正義を求める心』(一九二一年)と大杉栄・伊藤野枝共著の『二人の革命家』(一九二二年)とをたずさえていったと覚えている。クロポトキンの『相互扶助論』(A. Kropotkin, Mutual Aid, 1912.)も大杉栄の訳(第十四版、一九二二年)で読み、ダーウィンの『種の起原』(Charles Darwin, Origin of Specie, 1859.)も大杉栄の訳(一九二八年)で読んでいた。いろいろと読んではいたが、私が少し早熟であったにしても、彼の思想が少年の私によく理解されていたとは思われない。ことによると、神近市子〈カミチカ・イチコ〉が大杉栄を神奈川県葉山の日蔭茶屋で刺したというような事件(一九一六年)が私の関心を唆って〈ソソッテ〉いたのかもしれぬ。いや、そう考えるよりは、あの時代の空気の全体が大杉栄という人物及び著作のうちに結晶していたと見るべきなのであろう。【以下、次回】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます