◎「法は治世の一具」穂積八束の法治主義否定論
昨日の続きである。本日は、『国家学会雑誌』第三三号(一八八九年一一月一五日発行)に掲載されている、穂積八束の論文「法治主義ヲ難ス」を読んでみたい。
原文は、カタカナ文で、句読点・濁点、ともに使用されていない。これをひらがな文とし、句読点・濁点を補ったが、それを除けば、基本的に原文のままである。
○法治主義を難ず 会員 法科大学教授 文学士 穂積八束
国を治むるは主権なり。法は治世の一具たるに過ぎず。立憲政躰と云ひ、法治国と証するは、寧ろ政治の方向を指定するの義にして、法理を談ずるときは是等の用語を避くるを可なりと為す。而るに、世上一種の学風勢力を占め法理を附会して〔こじつけて〕、善良なる政治主義を弁護せむとする輩〈ヤカラ〉多く、為めに予輩の唱道する公法の学理の、世上の擯斥〈ヒンセキ〉するところとなるは、歎ずるに堪へたり〔なげかわしいことだ〕。法治国と云ふの用語、独乙〈ドイツ〉の政治書より輸入せられしより、其真意のあるところを、解せざるの輩、亦、容易に之を口にす。知らず、欧州最盛の文化国といえども、世人の喋々するが如き厳酷なる法治主義に則る〈ノットル〉ものなきことを。
世人、普通の解釈に依れば、法治国とは法律を以て最上権力となし、君主及政府の行為を制限し、臣民は法律に依るの外、主権者に服従すべき義務なしと為すの国躰を指すの義たるがごとし。是れ、臣民は法律に基かざるの主権者の命令に抵抗するの権ありと唱へ、又は上〈カミ〉に違法の処分あらば、下〈シモ〉反乱の権ありと云ふが如き、驚駭すべき論結、或は全く世人の脳裡より脱却し了らざる〈オワラザル〉の病根なりと信ず。【以下略】
ここで、穂積八束は、「法治主義」そのものを否定し、「法は治世の一具たるに過ぎず」と極論している。こういう法思想の持ち主が、東京大学法科大学の教授として、全国から集まった優秀な学生に、講義をしていたのである。
穂積の主張は、欧州留学の体験を踏まえたものであることに注意したい。すなわち彼は、「欧州最盛の文化国といえども、世人の喋々するが如き厳酷なる法治主義に則るものなきこと」を指摘し、世人のいう法治主義が理想論にすぎないことを強調している。
ただし、こうした穂積の学説は、本人も認めているように、「世上の擯斥するところ」となっていた。すなわち、当時の日本の学界・司法界は、「欧州最盛の文化国」以上に、法治主義というものを、「厳酷」に捉えようとする傾向が一般的だったと思われる。
こうした中で、一八九一年(明治二四)に発生したのが、ロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件)であった。この事件をめぐる争点は、まさにこの「法治主義」の是非にあった。
というより、たいへん教えられました。
穂積八束も名前は知っていましたが、憲法観については知りませんでした。
安倍氏の一連の動きが麻生氏のナチス発言と通底していること、
背後に知恵をつけている立憲主義否定の学者がいるであろうこと、
海外の政治指導者たちがその辺を読み切っているであろうことなど、
いちいち納得です。
麻生氏は「ナチスをモデルに」という辺りを聞きかじって、よく分かりもせず、
あの不用意な発言をしたのでしょうね。
「反知性主義」と「決断主義」、いってみれば歴史の教えと世界の潮流を
理解しえない者の思い込みが、日本の今の政治を動かしているということでしょうか。
マスコミの大勢も何故か、それに対する適切なチェックができないでいる今、
たいへん怖いものを感じます。
った民主主義も大変恐ろしいものであると感じます。やは
り、日本には2大政党制は向かないのではないかと思い
ます。