礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高津正道の「邪教」観

2014-11-25 10:30:59 | コラムと名言

◎高津正道の「邪教」観

 一昨日の続きである。高津正道『邪教新論』(北斗書房、一九三六)の「序――なぜ本書を出すか?」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 一昨日、引用した部分に続けて、改行して、以下のようにある。

 これらの新興諸宗教の跋扈〈バッコ〉跳梁を、最も苦々しく思つてゐるものは、東西本願寺をはじめ、浄土宗、禅宗、天台宗、真言宗、基督教などの既成教団であることはいふまでもない。彼等は新興諸宗教の発展によつて、「正真〈セイシン〉宗教」の権威を損傷されるのみか、何よりもまづ得意先を奪はれ、その生存権を脅かされる立場にある。そこで彼等は、いはゆる邪教狩りを熱望せざるを得ないのである。吾々もまた、吾々の陣営に当に〈マサニ〉来る〈キタル〉べき「迷へる大衆」に対し、彼等をさらつて行くいはゆる「新興宗教」なるものが、吾々無産者にとつて何を意味するかを、明らかにする必要を感ずるのであるが、とはいへ、既成宗致の側からの「邪教論」には、決して同じて〈ドウジテ〉はならないのである。なぜなら、既成宗教こそ、支配階級と結ぶことにおいて、新興諸宗教より、より歴史的でもあり、したがつて、より鞏固であり、この意味からは、一層批判解剖に値ひするからである。
 搾取する、科学に反対してインチキ治療をする、科学的世界観に反する諦らめを説く、精神主義を宣伝する――かくのごときものは、何よりもまづ、無産大衆にとつては、この上なき妨碍物であり、またその階級運動にとつては、大なる妨碍物である。我々はあくまで、かかる妨碍物を除去しなければならぬ。かくの如き邪教にまでも取りすがらざるを得ざる大衆に対し、声を限りに呼びかけねばならぬ。
「その道は違ふ。無産者解放、社会改造運動といふこの本道に、一日も早く出て来たまへ」と。
この書の読者諸君の中に、もし新興諸宗教の信者が居られるとすれば、本書は或ひは諸君の感情を刺戟するかも知れないが、だが本書は、諸君を攻撃するために書かれたのではなく、私達の所信を諸君に伝へるために書かれたものであることを、信じていただきたい。
 その他の読者諸君に対する私の希望は、諸君がもし本書によつて、いはゆる新興諸宗教の反動性を認められたならば、さらに諸君の周囲の人々に対して、このやうな邪教観を弘められんことである。
 本書は勿論、日時に関し、人名地名に関し、その他にも、誤謬なきを期した心算〈ツモリ〉であるが、なほ誤りがあれば、諸君の御是正を得たい。
 また本書のなかで、大本教を論じた一章は、既にパンフレツトとして発表されたものであり、「ひとのみちの検挙」の章は『改造』に、「邪教と貞操問題」の章は『婦人公論』に、「ひとのみち教団を解剖する」と、「波に踊つた友松圓諦たち」の章は『中央公論』に、その他もまたそれぞれ雑誌に発表したものである。が、天理教批判と金光教批判との両章、並びに最後の五六章は、新たに本書のために書いたものである。
 既に発表したものにも若干筆を入れた部分があるが、著者はいま労農無産協議会に属して、反フアツシヨ運動の一老兵として多忙なままに、ほとんどそれも小部分にとどまつた。しかし江森盛彌〈モリヤ〉、小川實也〈ジツヤ〉の両君の同志的な援助の下に、本書をこの機会に出版するに至つたことは、著者にとつては、いろいろの意味で喜びである。
なほ考へるところがあつて、友松圓諦論をも、この書に収めることにした。
著者しるす

 この「序」を読むだけで、著者・高津正道の「邪教」観のおおよそは理解できる。こうした高津の「邪教」観に対するコメントは次回。

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本日は更新できません

2014-11-24 10:10:51 | コラムと名言

◎本日は更新できません

 昨23日、突然パソコンが故障し、本日は、ブログの更新ができません。

 パソコンを買い替えるなどの手段を講じますので、しばらくお待ちください。2014・11・24

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高津正道『邪宗新論』(1936)について

2014-11-23 09:27:54 | コラムと名言

◎高津正道『邪宗新論』(1936)について

 数年前に、高津正道著『邪宗新論』(北斗書房、一九三六)という本を入手した。入手した当時は、パラパラと内容を確認した程度であったが、今になって読み直してみると、なかなか興味深いものがある。ちなみに、この本が刊行されたのは、一九三六年(昭和一一)一二月二六日であるが、それより三か月ほど前、ひとのみち教団への弾圧が開始されている(同年九月二八日に、同教団の初代教祖・御木徳一〈ミキ・トクハル〉が、信者の娘一五歳に対する「強姦」の嫌疑で逮捕された)。
 筆者・高津正道〈タカツ・セイドウ〉が、同書で示している立場や宗教観、あるいは「姿勢」に、私は共感しない。この点は、このブログの読者の多くも、たぶん同様であろう。しかし、同書に含まれている、当時の情況等の諸情報は、きわめて貴重なものであり、今日の日本における宗教問題、たとえばオウムや幸福の科学をめぐる問題について考える際、参考になると考える。
 本日は、とりあえず、同書の「序――なぜこの書を出すか」を紹介してみよう。

 序――なぜこの書を出すか
 一九二九年〔昭和二〕に私は「無産階級と宗教」といふ論文集を世に問うた。この書には、私が階級的な立場からの宗教批判のために執筆した論文が、集められたが、それらの論文は、主として教界関係の新聞雑誌に掲載せられたもので、その執筆に際して、教界の青年層を無神論的に啓蒙しようといふ意図が、働いてゐたものであつたから、したがつて、多分の通俗性をもつてゐた。この書が相当広い範囲の読者に迎へられたのも、恐らくそのためであつただらうと、考へられる。
 また、一九三〇年〔昭和五〕に私は、反宗教運動者としての立場から、支配階級と結ぶことの最も深い既成教団たる東西本願寺を、全面的に暴露するところの、「搾取に耽る入々」と題する一書を出版したが、この既成宗教の牙城を調査し、解剖するために、数ケ月間京都に出張した私の努力は、幸ひにして酬いられ、この書は版を重ねること九回に及んだ。
そして、この時から現在まで既に六年を経過した。
 この六年間においてわが無産階級運動は一時的な退潮を示した。それとともに、反宗教運動の砲火によつて、一時はまつたく沈黙せしめられてゐた既成宗教は、支配階級の政策的掩護の下に、いよいよその反動的性質を強化しつつ、大衆への再進出を開始したのであつた。これすなはち、一九三四年〔昭和九〕頃よりのいはゆる「宗教復興」現象の本質である。この時に当つて、友松圓諦〈エンタイ〉、高神覚昇〈タカガミ・カクショウ〉等の流行僧が出現し、ラヂオ説教と宗教ジヤーナリズムの著しい活躍が見られたことは、周知の如くである。が、いはゆる「非常時」の社会不安の深化と、止むことを知らざる生活条件の低下は、この既成教団を中心とせる「宗教復興」のお祭り騒ぎから、早くも大衆を離反せしめた。とはいへ、大本教、ひとのみち、生長の家、天理教、金光教〈コンコウキョウ〉などの新興諸宗教の流行は、未だ依然として止まるところを知らないのである。この事情は、現在支配階級がまつたく大衆の信頼を失ひつつあるとき、その一部であるところの、いはゆる「新興分子」が、そのデマゴギー政策によつて、未だなほ後れ〈オクレ〉たる大衆の間に若干の支配力を揮ひつつある事実と、まつたく対応するものである。特にこれらの新興諸宗教々団が、意識的に、この支配階級内部のいはゆる「新興分子」に結びつき、そのデマゴギーに積極的に共働しつつある事実は、注目すべきであらう。が、最近激化せるわが国支配階級内部の分裂抗争の状態は、そのまま宗教界にも反映し、支配階級の一部におけるいはゆる「新興分子」の政治的進出と同じく、これらの諸宗教の活動もまた、今や、彼らのより大なる部分の意図に鋭く対立し、好ましからざるものとして処遇せられつつあるのである。【以下、次回】

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指導者たちが我々を戦争に引きずり込んだ

2014-11-22 05:28:32 | コラムと名言

◎指導者たちが我々を戦争に引きずり込んだ

 すでに引用したが(今月一五日)、マーク・ゲインの『ニッポン日記』の一九四六年(昭和二一)四月二七日の項には、「彼の活動の一端には、昨年のクリスマス当時、酒田でお目にかかった」という一節がある。この「彼」とは、石原莞爾のことである。
 前年の一九四五年の一二月二六日、マーク・ゲインは、酒田市に滞在していた。そこでゲインは、酒田警察署長にインタビューし、彼から、敗戦後における石原莞爾の動向を聞き出したのである。以下は、『ニッポン日記』上巻五九~六〇ページから引用。

 さらに〔署長は〕かつて頗る強力だった酒田の国家主義運動についても話してくれた。
『最近の国家主義者の集会は、終戦後、そうですね、いまから二月ほど前に開かれました。石原莞爾中将の講演があるというので、二万人ほどの人がこの近くの町に集まりました』
 この名前はまるで電鈴のように私の耳に鳴り響いた。十二三年前私が中国にいた時始めてイシハラという名前をきいた。彼は当時日本陸軍参謀本部の寵児だった。彼は満洲に勤務しアジア征服の計画を樹てた。狂信的な『青年将校派』と結び、東亜連盟を統率した。その狂暴な対外強硬主義は天皇の二人の弟を引入れ、すくなくとも二度は東條の暗殺を企てたがいずれも失敗に了った。
 署長の言うところによると、この大会は今年の九月十九日、すなわち日本が降伏を宣言した日から三十六日目に開かれた。これは歯に衣〈キヌ〉着せぬこの超国家主義者の演説をきくためだけの単な〔る〕演説会ではなく、政府が支援した一大国民精神作興運動だった。文字通りの混乱のさなかのあの九月に、鉄道省は石原の信奉者を日本の隅々から運ぶために特別列車の編成をどうにかやりくりした。爽やかな初秋のこの日、二万の人が東條を弾劾する石原の演説をきいた。
 この大聴衆を前に彼は演説した。
『諸君の勇気が足りなかったから敗けたのではない。あやまれる指導者たちが準備のない戦争に我々を引きずり込んだから敗れたのである。彼等は祖国を裏切り天皇を裏切った。我々は今やアジア共栄圏を再建して全くあらたに出直さなければならない。しかし今度は武力をもってではなくアジア諸国民との友好を通じてこれをなしとげなければならない。が、我々はじきに――おそらく十年以内に旧に復し得るであろう』
 日本は新しき救世主以上のものを得つつあった。また敗戦の原因についても快い説明を得つつあった。すなわち、悪漢どもは今巣鴨で戦犯として裁判を待っている東條以下の若干名で、ほかの者は誰も責〈セメ〉はない。――天皇も大財閥の一家も政界の黒幕もまた石原自身の様な将軍たちも。これは傷ついた誇りに膏薬を塗り心の痛みを和らげる気持のいい解釈であり、第一次大戦後のドイツで行なわれたこれとよく似た理論のように――十年後の復讐戦争への道をひらくものであった。

 ゲインは、石原の演説は、「今巣鴨で戦犯として裁判を待っている東條以下の若干名」を悪漢どもに仕立て上げるものであり、日本人の「傷ついた誇りに膏薬を塗り心の痛みを和らげる」ものであると理解する。なるほど、そのように解釈すれば、GHQが、この石原の演説を妨害しなかったことや、政府がこの集会を支援したことが腑に落ちる。本人がどのように考えていたかは知らないが、客観的に見れば、石原の所説は、GHQの占領目的に沿うものだったのだろう。
 ところで、署長の言葉に、「石原莞爾中将の講演があるというので、二万人ほどの人がこの近くの町に集まりました」とある。この「石原莞爾中将の講演」とは、どこの集会のことを指しているのだろうか。大熊信行の『戦争責任論―戦後思潮の展望―』(唯人社、一九四八)には、「山形県では九月十二日新庄町公園広場にひらかれた東亜連盟県地区会員大会のために、やはり臨時列車が四本出されており、会衆一万五千ともいう」という一節があった(昨年一月八日の当コラム「敗戦直後、群集を前に獅子吼する石原莞爾」参照)。日付は少し異なるが、あるいは、この新庄町(現・新庄市)での大会のことだったのではないか。あるいは、これとは別に、九月一九日にも、酒田市の近くで、二万人規模の集会が開催されていたのか。

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マーク・ゲイン『ニッポン日記』の旧版と新版

2014-11-21 08:07:41 | コラムと名言

◎マーク・ゲイン『ニッポン日記』の旧版と新版

 マーク・ゲイン著・井本威夫訳『ニッポン日記』(筑摩書房)は、上下二巻からなり、上巻は、一九五一年(昭和二六)一一月五日、下巻は、同月三〇日に発行された。
 同書には、一九六三年(昭和三八)一〇月二五日に筑摩叢書の形で発行された新版もある。新版には、訳者の「新版にあたって」という文章、さらには、中野好夫による「解説」が付されている。旧版にあったミスも訂正されているという。その点はよいのだが、旧版下巻で、一二〇ページ余を占めていた第三章「朝鮮」、および、下巻末の「マックアーサー帰国後」という文章が、そっくりカットされている。研究のために同書を利用される方は、新旧両版を用意すべきであろう。
 本日は、新版に付された井本威夫〈タケオ〉の「新版にあたって」という文章を紹介してみたい。

 新版にあたって
「筑摩叢書」の中に、「ニッポン日記」をいれたいという申出でに、まったくびっくりした。昭和二十六年秋初版の図書は、もうすっかり読みわすれられていることと思っていたし、最近ある週刊誌で、書中に登場するある人物のことを連載したことがあったが、訳者としては、過去の本と考えていた。
 しかし、やっぱりあの混乱のときの記録としては価値がある本であろう。翻訳を思いたった動機は、たびたび、いろいろなところへ書いたから繰り返す必要はない。ただ、筑摩書房の大英断により講和条約発効〔一九五二年四月二八日〕前に出版するということになり、のんびり訳していたので、ずいぶん慌てたため、思いちがいや、ケヤレス・ミステークもずいぶんあったが、改版の機会がなかったのと、当時の情勢で、都合のわるい人物をA代将とか、X少佐とか仮名を用いたのと、大して重要ではないが、三カ所ほど訳出しなかったところがあった。これも残念だったが、初版発行後間もなく、一面識もない寿岳文章〈ジュガク・ブンショウ〉先生から、いろいろ正誤表を頂き、そのうえ、本書三〇一頁にあるフレーザーのことを、訳者の無知と、わざわざ訳注をつけることもあるまいと、「英国の詩人、フレーザー」とやってしまった。寿岳先生のお手紙は、大切に保存しているが、原著者がそう書いているなら大変な思いちがいで、これは、民俗学者その他として著名なフレーザーの間違いであるとご教示をいただいた。眼光紙背に徹すとよくいうが、まったくそれどころではなかった。今度の叢書でようやく訂正、先生に十二年ぶりでお詫びできるのが何より嬉しい。「朝鮮」と、マックアーサー罷免後の日本について原著者がわざわざ書きおくってくれた「マックアーサー元帥帰国後」は、訳者の意図で採録しなかった。「朝鮮」は、どういうことなのかまったく見当もつかないし、後者は、やはり、新聞記者が、自分で歩き、自分で見、自分で記録したものでないと、はなはだ印象がうすれるからである。
 いま読まれる読者は、きっと違和感を覚えられることと思う。それはそれで結構だが、当時の記録として――著者の主観がかなりつよく出ていても――残しておきたい本である。
 読者が、何を読みとられるか、どう反撥されるか、訳者には大変興味があるが、あえて「筑摩叢書」中に加えて下さった同書房には敬意を表せざるを得ない。
 一九六三年七月    訳 者

 これによれば、新版で、第三章「朝鮮」と「マックアーサー元帥帰国後」をカットしたのは、訳者の意向を受けたものだったようである。
 なお、訳者・井本威夫は、一九六三年一一月八日に、すなわち新版発行から一〇日ほど後に、亡くなっている。

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