礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西神田「日本書房」の包装紙に見られる経文

2017-05-26 02:10:51 | コラムと名言

◎西神田「日本書房」の包装紙に見られる経文

 先日、西神田の古書店・日本書房で、店頭に置かれていたバーゲン本を数冊買い求めた。小額の買い物だったにも拘わらず、包装紙で包装した上に、「神田 本の街」と書かれたシッカリしたビニール袋に入れていただいた。
 その包装紙だが、これは日本書房のオリジナルで、記憶では四十年以上前から、デザインが変わっていない。扇の扇面に描かれた平安貴族と思われる男女の絵の上に、経文のようなものが、ビッシリと書き込まれている。
 この経文が何というお経のものなのか、ふと気になって注視したところ、途中に「妙法蓮華経方便品〈ボウベンポン〉第二」とあった。法華経の一部のようである。
 文字は一部、不鮮明な部分もあるが、今は、インターネットという便利なものがあるので、容易に復元できる。
 復元した経文は、次の通り。旧漢字は、新漢字に直したが、「佛」、「盡」は、そのままにしておいた。「断」、「万」は、原文でも、この字形を使っている。

佛此夜滅度 如薪盡火滅 分布諸舎利 而起無量塔
比丘比丘尼 其数如恒沙 倍復加精進 以求無上道
是妙光法師 奉持佛法蔵 八十小劫中 広宣法華経
是諸八王子 妙光所開化 堅固無上道 当見無数佛 
供養諸佛已 随順行大道 相継得成佛 転次而授記
最後天中天 号曰燃燈佛 諸仙之導師 度脱無量衆
是妙光法師 時有一弟子 心常懐懈怠 貪著於名利
求名利無厭 多遊族姓家 棄捨所習誦 廃忘不通利
以是因縁故 号之為求名 亦行衆善業 得見無数佛
供養於諸佛 隨順行大道 具六波羅蜜 今見釈師子 
其後当作佛 号名曰弥勒 広度諸衆生 其数無有量
彼佛滅度後 懈怠者汝是 妙光法師者 今則我身是

我見燈明佛 本光瑞如此 以是知今佛 欲説法華経
今相如本瑞 是諸佛方便 今佛放光明 助発実相義
諸人今当知 合掌一心待 佛当雨法雨 充足求道者
諸求三乗人 若有疑悔者 佛当為除断 令盡無有余
妙法蓮華経方便品第二
尓 時 世 尊 従 三 昧 安 詳 而 起 告 舎 利 弗 諸 佛
智 慧 甚 深 無 量 其 智 慧 門 難 解 難 入 一 切 声
聞 辟 支 佛 所 不 能 知 所 以 者 何 佛 曽 親 近 百
千 万 億 無 数 諸 佛 盡 行 諸 佛 無 量 道 法 勇 猛
精 進 名 称 普 聞 成 就 甚 深 未 曽 有 法 随 宜 所
説 意 趣 難 解 舎 利 弗 吾 従 成 佛 已 来 種 種 因
縁 種 種 譬 喩 広 演 言 教 無 数 方 便 引 導 衆 生

 経文は、キリの悪いところから始まって、キリの悪いところで終わっている。おそらく、法華経を写した一連の扇子が作られるということがあって、ここにある扇子も、そのうちのひとつなのではなかったのか。

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役人や知識階級はドイツ流の統制主義一本槍

2017-05-25 03:54:55 | コラムと名言

◎役人や知識階級はドイツ流の統制主義一本槍

 実話雑誌社発行の月刊誌『実話雑誌』一九四八年新春号(第三巻第一号)について、もう少し述べておきたい。
 同誌同号の裏表紙に、唱歌「箱根八里」一番の替え歌が載っていることは、今月二一日のブログで紹介した。同号四二ページの余白には、著名な和歌をモジった「狂歌」が、五つ載っている。
 本日は、まず、これを紹介しておこう。

○なげけとて闇屋は物を思はする
  買ふことならぬ我がくらしかな
○もろともにあはれと思へ引揚者
  やみより外に食ふすべもなし
○無償ではくれぬものとは知りながら
  なほうらめしき配給の品
○心あてにそれと思ひし番号の
  人まどはする宝くじかな
○闇市の店に吊りたる裾模様
  流れし質の紅葉なりけり

 いずれも、当時の世相を皮肉たっぷりに描写したものである。一応、それぞれの「本歌」も引いておこう。

○嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな(西行法師、百人一首86)
○もろともにあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし(前大僧正行尊、百人一首66)
○明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしきあさぼらけかな(藤原道信朝臣、百人一首52)
○心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花(源氏物語26)
○山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり(春道列樹、百人一首32)

「箱根八里」一番の替え歌にせよ、和歌のモジリにせよ、時代に対する批判精神と相当の教養、それに加えて、機智のセンスを持った人物でなければ、とても、こういうものは作れない。作ったのは、編集担当の畠山清身、畠山晴行兄弟のいずれかだったのだろう。あるいは、兄弟の合作だったのかもしれない。
 ところで、同誌同号の最終ページ(五〇ページ)には、「編輯後記」というものが載っている。署名もなく、非常に短いものだが、感心させられた。次のようなものである(改行は原文のまま)。

  編 輯 後 記
 明けましてお芽出度う。いよい
よ終戦四年目の年を迎へる訳だが
今年こそ何んとか目鼻のついた年
にしたいものだ。それにつけても
一般庶民が一足先に民主的になつ
てゐるのに、お役人や所謂知識階
級が、戦争中の味が忘れられず、
独逸流の統制主義一本槍の机上プ
ランに終始してゐるのは困つたも
のだ。ともあれ、平素の御愛顧を
謝し、読者諸氏の艶福を祈る。

 ここで注意したいのは、「お役人や所謂知識階級が、戦争中の味が忘れられず、独逸流の統制主義一本槍の机上プランに終始してゐる」という指摘である。
 敗戦後、軍部が解体され、国民主権・民主主義の世の中に変わったが、戦中の統制経済は、そのまま維持された。占領軍のニューディール派の主導によって、農地改革・財閥解体などの社会変革がおこなわれたが、これは、戦前戦中に進行していたナチ的(国民社会主義的)社会政策を引き継ぐものだったとも言える。
 当時、「ヤミ」が横行したのは、国家の統制主義が経済の実態に合わなかったからである。庶民にとっては、「ヤミ」は、生きるための手段であり、国家の統制主義に対する反抗でもあった。この「編輯後記」の筆者は、そのあたりを、よく見抜いていた。だからこそ筆者は、当時における「ヤミ」の横行を、皮肉な目で観察することができたし、また、「戦争中の味が忘れられず、独逸流の統制主義一本槍」という指摘をおこなうこともできたのである。
 なお、今でこそ、「戦中戦後体制連続論」という議論が、知られるようになってきたが、こうした視点が初めて提起されたのは、一九九〇年前後のことであった。「編輯後記」の筆者は、直観的にではあったが、まさにリアルタイムで、戦中戦後体制の「連続」に気づき、それを指摘していたことになる。

*このブログの人気記事 2017・5・25(4・8位に珍しいものが入っています)

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老僧の背後に瞋恚の形相の年増女が

2017-05-24 03:31:43 | コラムと名言

◎老僧の背後に瞋恚の形相の年増女が

『実話雑誌』一九四八年新春号(第三巻第一号)に掲載されていた「心霊座談会」の記録を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した二節のあと、次のように続いている。

 写真に写つた亡霊
藤村 亡霊が写真にうつるのは、さう珍らしいことでばないやうですね。永年、写真屋をしてる連中は、よく言ひますが、時々、写した人の肩や、横の方に、人間の顔や、動物の姿が現はれてゐることがある。そんな時は、修正するか、写し直してやるんだ――と言つてましたが……。
道島 写真を見て、その人の運勢を占ふといふのがありますね。
岡沢 占ふんぢやアないんでせう? 例の水沼(仮名)あれぢやアないんですか?
道島 さうです。
岡沢 あれはね、憑き物をさがすんですよ。たとへば、女に恨みをうけてゐるとする。その女の生死にかゝはらず、恨みなりなんなり思ひがかゝつ居れば、必ず写真に写つてゐるといふんですよ。玄人の写したものでは、修正してあるからいけない。素人の写したものに限るといふんで、それに現在の住居の、成可く〈ナルベク〉四六時中ゐる部屋、たとへば居間のやうな処を写した写真をならべて鑑定すると、百発百中だといふんですが……。
羽田 あたりますか?
岡沢 責任をもつて言へないが、まア相当なもんです。やはりこれで、素人で相当なのがゐるさうですよ。下谷〈シタヤ〉あたりに住んでるんださうですが……。
藤村 写真に写つた幽霊ですがね、大正十年〔一九二一〕の春のことです。奈良県高安〈タカヤス〉の天理教支部の学校に、山本寛三郎といふ生徒がゐたが、卒業間際に心臓まひで死んだんです。すると、それから半月程して、卒業紀念の写真撮影があつた。その時、山本と仲のよかつた一人が
「山本がゐたらなア」
 と呟いたさうですが、撮影を終へて数日後に、写真屋が蒼くなつてとんで来た。
「この方、山本さんでせう? 私、前に一度写真をうつして知つてますが、たしかに死んだ筈ですが……」.
 と示された写真には、写真屋のいふ通り、山本が教服姿で後列にひかえてゐたといふんです。
岡沢 ぢやア僕も一つ。話は古いですよ、明治六年〔一九七三〕の十一月です。横浜のある写真屋に老僧が来て撮影を依頼した。写真屋が、ピントガラスをのぞいて見ると、肉眼では老僧一人より見えないのに、ガラスには老僧の背後に瞋恚〈シンイ〉の形相すさまじい年増女が現はれてゐるので、大いにおどろいて所轄署に駆けつけ警官立会の上で写真を撮影し、その珍写真をその筋に提出した。この記録は、戦災後どうなつたか知らないが、写真とともに僕も見ました。まことに珍らしいものです。
畠山 その因縁話といふやうなものは伝はつてゐないのですか。
岡沢 あるんです。老僧は、神奈川県相模郡程ケ谷の浄土寺天徹寺の住職試補で、小山天領(50)といふんですが、写真の女は同人の先妻です。一子を残して病死したんですが、その死ぬ前に、
「子供までゐるのですから、私が死んでも独りで暮して下さい。それが気がかりで死ぬにも死ねない」
 と言つたのです。すると天領坊さん、どうせ死ぬんだから、安心させてやれと思つたのでせう。
「よしよし、後添ひはきつと貰はない。お前を思って泣いて暮すよ」
 と約束手形をふり出した。ところがどつこい、さうはゆかない。死んで一年もたゝない中に、遺言にそむいて後妻を迎へてしまつたから、しつとのあまり亡霊となつてつきまとつてゐたわけです。  (新井五郎画)

 座談会の記録はここまでである。ながながと紹介したが、出てくる事例が、あまりにも古い。戦中や敗戦後の事例を期待したブログ読者がいたとすれば、まことに申し訳ないことであった。ことによると、同誌の他の号には、そうした事例も紹介されているのかもしれない。
 明日は、『実話雑誌』一九四八年新春号(第三巻第一号)について、若干の補足をおこなう。

*このブログの人気記事 2017・5・24(2・6位に珍しいものが入っています)

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玄関で石川啄木が「金田一君、金田一君」と呼んだ

2017-05-23 05:43:31 | コラムと名言

◎玄関で石川啄木が「金田一君、金田一君」と呼んだ

『実話雑誌』一九四八年新春号(第三巻第一号)に掲載されていた「心霊座談会」の記録を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した「幽霊子を救ふ」と題した節のあと、次のように続いている。

 のんだくれの借金
畠山 岡沢さん、その点やはり、心霊現象からいふと、第三霊の活躍といふやうな……
岡沢 さうです。さう解釈してゐます。人間には誰れしも先祖の霊がついてゐる。そして子孫を守護してゐるんです。姿なき声にしろ又幽霊となつて危難を救ふにしろ、今の二つの場合は、各々その本人が霊界からの通信を接受する霊能力のあつた人だから本人に来たんですが、霊界から如何に発信しても、本人に感受するだけの霊能力がない場合には、全然関係のない他人に来ることもある。
道島 すると、霊媒などによつて呼び出された霊が、いろんなお告げをするのは、みなそれなんですね。
岡沢 さうですさうです。しかし、これには非常にいんちきがありますから……。
松永 反対に、祟り〈タタリ〉を及ぼすといふのもあるさうぢやアありませんか。
岡沢 ありますね。先祖の霊が、子孫に甚しく不満を抱いてゐる場合。又、時には、思ひ残すことがあつて子孫が一向感受してくれないので、怒る――といふりもぢれて、いろんなことをやり出す。【中略】

 霊界通信と死の知らせ
記者 岡沢さん、霊界通信に就いて、もう少しくわしく話して下さいませんか。
岡沢 霊界に入つた霊魂は、皆ひとしく現世との通信を望んでゐるんです。自分のその後の生活を知らせたがつたり、又肉体は壊滅したが、自分の霊は生きてゐるといふことを示したがつたりします。さらに又、現世に思ひ残すことがあれば、それを告げやうとしたりする。
 これ迄の、内外の諸種の実例から見ましも、霊が肉体をはなれて霊界に転帰直後、即ち死の直後には、きわめて容易に自分の存在を示すことが出来るやうです。つまり、死の知らせといふやうな例が非常に多いのは、この証拠で、それから数日、又は数ケ月間は混迷期らしいのです。霊界の事情に馴れぬために当惑してゐて、自然、霊力も一番弱い時代で、霊術家が呼び出しても、応ずるものが少い。
松永 さうですね。死の知らせといふ奴は実にに多い。我々もしばしば耳にしますよ。
道島 普通人でも、霊気の豊かな人には、可成り〈カナリ〉強く来るやうだ。私なんかにも、予感といふか、なんといふか、感じで来る。あゝ誰れそれが病気だな、とか、誰れそれが死んだな、とか、自分では考へてもゐないことがひよいひよいと心に浮んで、それがちやんとあたる。岡沢さんなんかも、もちろんおありでせう?
岡沢 あります。私の場合は音で来て、夜など遅くまで起きてゐると、とんとんとんと、普通の音とはちがつた、なんとも言へないさえた音が、雨戸や窓をうつ。あゝ誰れか死んだな――と、思つてゐると、きつと報せが来る。
羽田 私の処なんかも音だ。壇徒の死んだ時は、必ず本堂で音がする。その音次第で、仏の年齢がわかりますよ。
松永 さう言えば、私にもその経験があります。北海道の小樽の、ある寺に泊つた時、庫裡【くり】の方が改築中だつたので、和尚と二人、本堂に床を並べて睡りにつきましたが、真夜中頃、なんとなく周囲がざわめいてゐるやうな気がして目をさますと、かすかに廊下を歩くやうな音や、ひそひそ話すやうな音。さらさと衣ずれ〈キヌヅレ〉の音。しまひには木魚や鐘の音まで、かすかに聞えて来るんです。それが、非常に遠い処のやうな無もするし、近い処のやうな気もする。私も、物に動じない方だが、さすがにこの時ばかりはこらえきれなくなつて、和尚をゆり起すと、和尚はもう先刻から気付いて、狸寝入りをきめこんでゐたらしいんです。そして、
「この音の様子では、仏様はまだ若い方ぢやな。騒ぎなさんな。人間一度は、誰れでもある。死ぬとすぐ、自分の宗旨の寺へ来るのぢや。そして、斯うして、仏霊や先に死んだ沢山の霊に導かれて冥界に入るのぢやよ。南無阿弥陀仏」
 と平気なものでした。音は三十分近くも続いてはたとやみましたが、果してその翌朝、三十歳になる壇徒の死を知らせてきましたよ。
 もつとも、その霊によつて、騒がしいもの静かなもの、いろいろあつて、こんなのはごくまれなんださうですがね。
藤村 私の処には、音になつて来たり、姿を現はしたり、時には光りもの――俗にいふ人魂となつて来たりします。
羽田 桂太郞公が死んだ時には、例の愛妾お鯉さんの処へ、人魂となつて行つて名残りを惜んださうですね。
岡沢 石川啄木が死んだ時は、声だつたさうだ。アイヌ語の研究家で有名な、帝大教授の金田一京助氏。あの人の玄関で、死の前夜、
「金田一君、金田一君」
 と二声三声呼んだ。金田一夫妻は顔を見合して、あれ程の病人が急によくなるわけはないと話し合つたさうだが、もちろん出て見ると玄関には誰れもゐなかつたんですよ。
道島 大阪堀江の惨劇〔一九〇五〕。六人斬りで両手を斬り落された芸者の妻吉。本名は大石米子と言ひましたね。あの妻吉を斬つた芸者屋の主人は、以前から妻吉を非常に可愛いがつてゐて、妻吉だけは斬る気がなかつたんです。それが、血を見て狂ひ出し、あんなことになつたので、兇行後も、
「妻吉にはすまない、すまない」
 と、言つてゐたさうですが、死刑になつた夜、旅芸人になつて地方巡業中の妻吉の処へ幽霊になつてわびに来たさうですよ。
藤村 新聞にまで出て有名になつたのは、北海道夕張の小学校の土方の霊です。なんでも地ならし工事の時に、崩壊する土の下敷になつて死んだらしいんですが、始めは宿直室の戸を叩いた。連夜それが続いて、結局三人連れの亡霊が現はれて、供養をたのんだのです。
岡沢 北海道には有名な鉄道工事で生き埋めになつた土工の幽霊がある。
道島 写真にうつゝたあれですね。
岡沢 あれは何処の鉄橋でしたか、昭和六七年〔一九三一、一九三二〕の頃でしたね。ある人がその鉄橋の写真をうつすと、その背景にぼんやり浮いてゐるものがある。不思議なんで二度三度やつて見ると、たしかに人の形だ。顔もやゝはつきりして来たが、どうしてそんな人物が現はれるのか、なんとしてもわからない。そこでいろいろ調べて見ると、その鉄橋工事の時にトロツコに積んだ土砂と一緒に転り〈コロガリ〉こんで惨死したのを、監督が、責任問題でもあり面倒臭くもあつたので、逃亡行方不明といふことでそのまゝにすました土方の霊といふことが解り、供養したんで、その後は写真にも現はれなくなつたさうです。
羽田 死を知らせる。ことに、変死などで、自分の死がうやむやに葬られてゐるやうな場合には、それが多いやうです。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・5・23(5・6・7位に珍しいものが入っています)

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ヒットラーの惨死を予言していた上野広小路の手相師

2017-05-22 05:26:15 | コラムと名言

◎ヒットラーの惨死を予言していた上野広小路の手相師

 昨日に続いて、『実話雑誌』の一九四八年(昭和二三)新春号(第三巻第一号)を紹介する。本日、紹介するのは、「心霊座談会」という記事である。これは、心霊研究の専門家五名および実話雑誌社の畠山晴行が参加した「心霊座談会」の記録である。表紙に「続心霊座談会」、目次に、「益々佳境に入る」とあるので、前号に続く記事なのであろう。
 
心霊座談会 専門家が語る 霊魂の秘密

 出 席 者 (発声順)
心霊研究家   岡沢 浄吉
僧 侶     羽田 芳流
観相研究家   松永 対岳
霊術研究家   藤村 瑞久
幽霊研究家   道島 真三
  本社側   畠山 晴行

 幽霊子を救ふ
藤村 手相と言へば、戦争中、空襲が激化しない頃、上野の広小路に、堂々とヒツトラーの手相を示して商売してゐた男がゐたが……
畠山 ゐましたね。例の運命線の先が、×印でとまつてゐる、不慮の死、惨死〈ザンシ〉の相を示してゐる、あれでせう?
藤村 さうです。白つぱくれて、これはなんだときゝますとね、へゝゝと笑つてゐて答へない。惨死の相ではないかときゝますと、旦那知つてるんなら聞く必要がないでせう――つて言ふんです。こんなもの出して置いて大丈夫か――つて言ひますと、なアに、軍や政府は思ひあがつてゐて、手相なんて迷信だと思つてますから――つて笑つてたが……
岡沢 関東大震災の時には、二月〈フタツキ〉前に大体わかつたので、僕達は被害を蒙らなかつた。今度はまア、わかるといふよりも、僕は戦争前から山にこもりつきりだつたから……
羽田 今のお住居〈オスマイ〉は?
岡沢 先月迄は高尾でしたが、来月あたりから、関西の方へ行きます。
畠山 此処にお集りの方は、ほとんど住所不定だから困ります。二度と再び、同じ顔ぶれを揃へやうたつて、めつたに出来ないことですから、まア今日は、心ゆく迄語つていたゞくことにします。御承知の如く雑誌も頁がないので、皆様のお話を一度に載せることは出来ませんから、五回にでも六回にでも連載するつもりです。どうぞ充分に、永年御研究又は御体験の秘話を御公開願ひますが、藤村さんは、戦災の方は……
藤村 一ぺんだけ、経験といふよりも見ました。茨城県の山中にゐたんで、日立の空襲に親戚の家へ行き合してゐて……。岡沢さんもその方〈ホウ〉は運の強い方〈カタ〉で、〔関東〕大震災の時も市内から中野へ引越して助かつたやうですが、私もあの時は、仙台の師匠から、東京市の略図に焼ける部分へ赤インキで印をつけ「九月一日までにこれ以外の場所へ立退け」と言つて来たので、神田から大森に越して、何一品〈ナニヒトシナ〉失はずにすみましたが、今度も、御覧の通り栄養失調で髪の毛が少々白くなつたゞけで……
畠山 今度の戦争では、幸不幸、実にいろんな心霊現象があったやうですね。
羽田 有名なのが、北京の広安門で負傷した桜井〔徳太郎〕中佐〔当時は少佐〕の身代り不動。
畠山 あゝ、あの福岡の……
羽田 さうです。中佐が非常に信仰してゐた家代々伝はる不動尊で、千百余年前、弘法大師が支那から帰つた記念にきざみ、福岡の東長寺に納めたものなんですね。廚子〈ズシ〉に納つて十年以上も開けたことがなく、当時門田といふ福岡の民家に安置されてゐたが、中佐の広安門での負傷事件があつた日の同時刻に廚子の中で非常に大きな音がした。開けて見ると不動明王の右足の甲が二つに割れ、左足の股の処が少し欠けてゐたんです。これは桜井中佐の広安門での負傷と同じ個所で、中佐も、斯うした尊い不動様を私有にして置くのは勿体ないといふので、福岡から石家荘〈セッカソウ〉に移し、高野山千手院の住職宮本さんが建てたお寺へお祀りしました。
藤村 宮本といふ名で思ひ出しました。これは同じ宮本でも、今のお話の千手院の宮本さんとは別人なのですが、父の幽霊に生命を救はれたといふ話がある。昭和三年〔一九二八〕のことですが、伊豆の長岡の宮本さんといふ人が大阪に旅行して郊外電車に乗つてゐた。宮本氏の日的地は、電車を降りてから又乗合自動車に乗らなければならない不便な場所で、ある駅に停車した時、駅名板で次が下車駅であるのを知つた宮本氏は、荷物をまとめて置くために起ち上つた。
 恰度〈チョウド〉その時、一人の老人が、車内に這入つて〈ハイッテ〉来て、宮本氏の向ひ側に腰かけた。宮本氏は、その老人の顔を見るとはつとした。大正十年〔一九二一〕に死んだ父親そつくりなんです。あまりよく似てるんで、宮本氏は荷物をまとめながらも老人の方ばかり見てゐた。荷物をまとめ終つてからも、まだ見てゐた。見れば見る程似てゐる。
 半白〈ハンパク〉の顎鬚から太い眉、始終伏目勝ちに、なにか考へ事でもしてゐるやうな格構までがそつくりそのまゝだつたさうです。もうそろそろ下車駅だが――と思つて、窓の方を振向かうとした時、前の老人もひよいと横を向いた。ところが宮本氏は、思はず、
『あツ!』
 と叫んでしまつたさうです。その老人の左の耳たぼに黒子〈ホクロ〉があつたんですね。その黒子までが、宮本氏の父親そっくりなんです。しかも、黒子に長い毛が一本生えてゐる。それも父親同様だ。たゞ違つてゐるのは、いくらか痩せ形だつたさうですが、それも死ぬ前の父にくらべると殆んど変りなく、父親の死を宮本氏自身が見てゐなかつたなら、恐らく、「お父さん」て、呼びかけてしまつだらう――つて話してましたが……。
 とに角,そんな工合なもんですから、宮本氏も、いつか下車駅を忘れて、老人の顔に見とれてゐた。その中に電車は下車駅に停る。どやどやと客が乗り込んで来たんで始めて宮本氏が気付いて起ち上つた時にはもう遅い。電車はがたんとゆれて発車してしまひ、たうとう降りはぐつてしまつたんです。仕方がなく、そのまゝ元の座席に腰をおとして、ひよいと前の席を見た宮本氏は、又、
『あツ!』
 と叫んでしまつた。今しがた迄ゐた、父親に似た老人の姿がないのです。車内を見廻したが何処にもゐない。宮本氏が目をはなしたのは、ほんの四十秒。しかも席を立つたゞけで、歩き出してはゐない。つまり、立つて坐る迄の間に、老人の姿は車内から消えてしまつたので、宮本氏はあまりの不思談に、隣席に坐つてゐた客へ、
『この前の席にゐた老人は、何処へ行きました?』
 ときいて見た。するとその客は、けゞん気〈ケゲンゲ〉な顔で、
『老人? どんな方です。前の席には、さつきから何れも坐つてゐませんでしたよ』
 といふ。他の客にもきいて見たが、その客も「そんな人は全然見かけなかつた」との話なので、宮本氏はいよいよ不思議に思つたが次の駅で下車して上り線にのり換へ、目的地の駅迄引返して来て、始めて納得がいつたのです。
 といふのは、その駅では大変な騒ぎが始つてゐた。その前の電車――つまり宮本氏の乗つてゐた電車から降りた客を乗せた乗合自動車が、駅から四五町行つた地点で、荷馬車を避けやうとして崖から顛落し、二名の死者と三名の重傷者を出したんです。駅へ運ばれて来た死傷者の顔を見ると、どれも宮本氏と同じ電車に乗つてゐた見覚えある人ばかりだつたさうで、そこで宮本氏も始めて、父の霊が幽霊となつて宮本氏の気をひき、わざと電車を乗り越させ、宮本氏の危急を救つたものといふことを感じたさうですが……。
道島 さうした実例は、よく耳にしますね。山の麓〈フモト〉を通つてゐると、何者とも知れず耳元で、
『駆け出せ、早く通れ』
 と叫ぶ声をきゝ、その通りにすると、その通り過ぎた後に山崩れが起つて危く生命を救はれたなんて。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・5・22(4・10位に珍しいものが入っています)

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