礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

我が陸軍も遂に姿を消すに至つた(藤本弘道)

2023-08-16 04:52:12 | コラムと名言

◎我が陸軍も遂に姿を消すに至つた(藤本弘道)

 藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)から、最終章の「市ケ谷台上の嵐」を紹介する。

     市 ケ 谷 台 上 の 嵐

 斯くて畏き〈カシコキ〉あたりには、陸軍大将朝香宮鳩彦王(アサカノミヤ・ヤスヒコオウ)殿下を支那に、陸軍少将閑院宮春仁王(カンインノミヤ・ハルヒトオウ)殿下を南方に、陸軍中佐竹田宮恒徳王(タケダノミヤ・ツネヨシオウ)殿下を満洲に御特派、各陸軍最高指揮官に対し夫々聖旨及び停戦に関する大命を伝達せしめられた。そして河邊虎四郎(かわべ・とらしろう)陸軍中将は八月十九日全権委員としてマニラに到着所要の会談をとげ、九月二日帝国降伏の詔書は渙発せられ、東京湾上のミゾリー〔Missouri〕艦上に於いて降伏調印が行はれ、一般命令第一号が発せられた。
 これより先八月十七日、畏きあたりに於かせられては陸海軍人に対し誠忠遺烈を御嘉尚〈ゴカショウ〉あらせられたる勅語を賜ひ、帝国陸海軍の闘魂尚〈ナオ〉烈々たるにも拘はらず、國體護持のため和を媾ずるに至りたる意を体し、軍人たるものは鞏固なる団結を堅持し、出処進止を闡明〈センメイ〉にし千辛万苦に克ち、忍び難きを忍んで国家永年の礎を遺すべきを御諭しあそばされたが、更に同二十六日には更に陸海軍に勅諭を賜ひ、重ねて多年の誠忠を御嘉尚あらせられ、干戈を収めて兵を解くに方り〈アタリ〉復員に有終の美を済し〈ナシ〉、戦後復興に力を致すべきことを御垂示あらせられた。
 その後陸軍としてはこの畏き勅語、勅諭を奉じて復員に、諸機関整備に、武装解除に平静として進んで行つたが、中央部に於いては八月二十四日に田中〔静壱〕東部軍司令官、九月十二日には杉山〔元〕第一総軍司令官、同十四日に第一総軍司令部附吉本貞一〈テイイチ〉大将が相次いで自決して行つた。
 九月十三日大本営廃止、十月一日航空総軍司令部廃止、十月十五日参謀本部、教育総監部、第一、第二両総司令部解体、同日全日本軍武装解除完了、内地復員部隊完了、十一月三十日陸軍省、航空本部各廃止。こゝに明治四年二月御親兵の設置によつて創設せられ次第に発展して行つた我が陸軍も遂に姿を消すに至つたが、昭和二十年八月九日より同十五日に至る一週間の時こそ、崩れ行く陸軍最後の日として、もつともあわただしかつた一日々々であつた。

 冊子『陸軍最後の日』の紹介は、以上で終える。
 同冊子の最終ページは、64ページだが、最終章「市ケ谷台上の嵐」の最後の文章は、同ページにまで及んでおり、その余白部分に、「奥付」がある。すなわち、同冊子の64ページは、本文の最終ページ、奥付、裏表紙の三者を兼ねている。
 なお、8月1日に指摘した通り、同冊子には綴じられた形跡がない。おそらく、同冊子は、両面印刷したA3判相当の用紙8枚を重ね(各枚、表裏で8ページ)、それを四つ折りにしたままの状態で発売されたのではなかろうか(読む際は、ペーパーナイフが手放せなかったことであろう)。

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八月十五日の朝は、ほのぼのと明けた(藤本弘道)

2023-08-15 00:40:43 | コラムと名言

◎八月十五日の朝は、ほのぼのと明けた(藤本弘道)

 藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)から、「大局は動かず」の章を紹介している。本日は、その六回目(最後)。

 その頃、十五日の朝は、ほのぼのと明け、彼等の信頼してゐた阿南〔惟幾〕陸相も自刃して果ててゐたのである。
 彼等の行動は、その以前、阿南陸相が大義名分の殼を破らうかと考へて出来得なかつたことを、その若さの故に決行して最後の枠を逸悅したもので、全陸軍軍人の一つの型を外部に示した例といふことが出来るであらう。
 K中佐は、S少佐等と行動を直接ともにはしなかつたが、やはりその主体となる考へは同様で、その考への結果として、日本の方向を誤まらしめひいては國體護持の最後の線を危くするものは、阿南陸相即ち全陸軍の意思を踏みにぢつた重臣達の罪にあるとして、彼等重臣グループを日本から抹殺することが、陛下に対し奉り最大の忠となるのではないかと、この方面に対して直接行動に出るべく計画をすゝめてゐたが、たまたま東京警備軍の佐々木〔武雄〕大尉等の一歩先んじて失敗した行動を冷静に批判したときに、その直接行動に出ることが如何に愚かなことであるかを悟り、その尖意〈センイ〉を飜へした〈ヒルガエシタ〉のである。
 かくして八月十五日正午、前代未聞の歴史的放送は行れた。
 この玉音を聞いて泣かぬ軍人は一人もなかつた。
 そして次の瞬間、彼等の胸にぐつと迫つて来たのは、敗戦国の軍人としての、言葉にも筆にもつくされぬ、わびしい、なさけない気持であつた。
 昨日まで、帝国陸軍軍人として、こんなみじめな気持で市ケ谷台上に立たうとは誰が考へたであらうか。
 誰しもがおちて行く考への最後は、武人としての自決といふことのみだつた。
 将校の一人々々が言ひ合せたやうに軍刀の手入れをし、拳銃の掃除をはじめ、身辺の整理をしはじめた。軍属まで将校と同じやうな行動をとつてゐた。
 この気持の中で、陸軍航空本部長寺本熊市〈テラモト・クマイチ〉中将は自決して行つたのである。

「大局は動かず」の章は、ここまで。
 藤本弘道『陸軍最後の日』は、「大局は動かず」の章のあとに、「再建運動より自己批判へ」の章が続き、そのあとの「市ケ谷台上の嵐」の章が最終章となっている。「再建運動より自己批判へ」の章は割愛し、明日は、最終章「市ケ谷台上の嵐」を紹介する。

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玉音の音盤を奪取して一先づ御放送を中止させ……

2023-08-14 02:54:09 | コラムと名言

◎玉音の音盤を奪取して一先づ御放送を中止させ……

 藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)から、「大局は動かず」の章を紹介している。本日は、その五回目。

 彼等は始めはその一切を梅津〔美治郎〕参謀総長と阿南〔惟幾〕陸相に委せて沈黙の態度を続けて、特に阿南大将の人その手腕を信頼して、彼等の考へだうりになるやうにその善処を希望してゐたのである。
 ところが愈々十四日最後の御前会議が開催され、御聖断が判然と下り、阿南陸相敗れ、梅津参謀総長は温順大勢に従ふの態度を持するに至つた結果を知るに至つて俄然その内部の動揺は激越なものとなつて来た。
 まづその外部に極端に現はれたのはK中佐、S少佐、H少佐を中心とする一団であつた。
 彼等は戦争継続を主張する部内の最急先鋒であつた。 
 彼等は参謀本部、陸軍省軍事課、軍務課の同志とともにこの御聖断を覆へさしめるべく、全陸軍のクーデターを開始すべしと各方面の上司を説服にかかつた。
 然し彼等の出端〈デバナ〉は先づ梅津参謀総長に押えられ、続いて各部局長に説得せられ、特に吉積〔正雄〕軍務局長から彼が整備局長兼任の立場から経済的方面からの継戦不可能なる理由を教示せられ、大きな団体として事を起すには不可能な立場になつた。
 しかも痛憤止み難きS少佐、H少佐は、市ケ谷台上に人無しとして、腹心の青年将校二、三名と語り合ひ、十五日午前一時ごろ近衛師団司令部を強襲、遂に宮城を侵犯し奉るの不祥事を惹起させる結果となつた。
 S少佐、H少佐等の一団は近衛師団司令部を強襲して師団長森赳〈モリ・タケシ〉中将に面会し、彼等の所信遂行に協力を要請した。
 彼等の所信とは何か。
 これも亦前述せるが如き國體護持観の相異から来るものであつた。
 そしてその國體護持観の上に立つとき、天皇の上に他の力が加はる場合は絶対に不可能であつて、この他の力を排除するものが皇軍の力であり、皇軍の住務は其処にあつたのであるから、天皇親政に非ずして國體護持があり得ざる以上、結果として皇軍の全面的武装解除によつて國體護持が出来ないことは当然であると彼等は考へ、ポツダム宣言を受諾すること自体が國體護持が出来ぬとし、陸軍はこの場合にはむしろ一億玉砕するに如かず〈シカズ〉といふ態度をとるべきであると説き、而も陸軍は一億玉砕の覚悟を以て敵を本土にむかへるときは、五百万の主力を持つ兵力が健在にして、飛機また数千機があり、特攻隊員も数万あり、辺土に至るせで築城は堅固を加へある現況から絶対最後の勝利を得ると簡単に確信してゐたのである。
 然るに朝議は一決して降伏と決定し、皇軍は國體護持の不安を有ちつゝ全軍武装解除の忍苦を受けんとしてゐるといふ状態になり、皇統が続き、皇位が存続することが國體護持であつて、これに外力が加はつて親政に不安があらうともそれはさしたる問題でないとするのみか、その主旨のもとに陛下を説き参らせて国民に降伏の事態を正当化して提示せんとする挙に出てゐることは奇怪至極であると彼等は考へるのである。
 そして、王音を放送申上げるといふことは陛下の御発意によるものとはいへ、玉音を直接国民の耳に聞かさねば承知出来ないのであらうといふ情勢に立ち至らしめたことは、それ事態健全な政治ではなかつた、無理以上無理な御政道を行はしめ奉らざるを得なかつたといふこと、即ち輔弼〈ホヒツ〉の実務を背ふ者としては死を以て諫止申上げねばならぬやうなことを聖上に行はせ申したといふ重大な責めがあるのである。而もこの第一の重大なる失策は、第二、第三と無理を重ね、度々陛下の御力にすがり参らせねばならぬ結果となつて、国民をしてむしろお上を恨ましめるといふ誠に寒心にたえぬ将来が出来ぬとも限らぬ。それのみか、玉音の御放送があると知つたとき、国民の大半以上、否その殆ど全部が一億玉砕せよと仰せられることであらうと考へてゐるといふ事実を何と解釈したらよいであらう。
 楠公が湊川に玉砕した恨みは藤原清忠、足利尊氏に向けられ、維新開国の恨みは井伊直弼に向けられた如く、今回の結果は降伏を断行せる所謂非戦派巨頭に向けられ、而も明治維新後、開国の結果は、佐賀の乱、熊本の乱、秋月の乱、萩の乱と小乱を重ねて西南の役にまで至つたと同様の結果が起らないとも限らない。
 さう考へるが故に、彼等はそのすべてを未然にふせぎ、彼等の正道と考へる道に大勢進めねばならぬ手段として、先づその前夜宮中で録音せられた玉音の音盤を奪取して一先づ御放送を中止させ、然るのちに側近を説いて事を運ぶため、近衛師団はクーデターに参加してくれと師団長に説いたのである。
 勿論、森〔赳〕中将は既に大命の下つたその時に於いてこれを受諾することはなかつた。
 激情にかられた彼等は師団長を拳銃で射殺し、当直参謀を一室に監禁し、偽師団命令を発して、宮城を守護し奉る宮護部隊を動員して城内衛兵本部を中心に宮城を占拠、蓮沼〔蕃〕侍従武官長、加藤〔進〕宮内省総務局長等を監禁、宮内省、内大臣府等と外部との連絡を遮断、その前夜宮城内で録音せられ、下村〔宏〕情報局総裁が保管してゐる筈の玉音御放送の音盤を奪取せんものと、下村情報局総裁、木戸〔幸一〕内府、石渡〔荘太郎〕宮相、大金〔益次郎〕次官等の行方を求めたのであつた。
 然し、宮護部隊の非常動員に比較的時間をとり、近衛師団長射殺の急報にかけつけた田中〔静壱〕東部軍司令官の説得にあつて、その目的を果すことを得ず、S少佐、H少佐以下幹部四名はその場で自決を遂げてしまつた。【以下、次回】

 文中、「K中佐、S少佐、H少佐」とあるが、S少佐は椎崎二郎陸軍中佐を指し、H少佐は畑中健二陸軍少佐を指すものと思われる。K中佐は、井田正孝陸軍中佐を指しているようだが、ハッキリしない。

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全員ヲ陛下ノ御下ニ復帰セシム(パラオ照部隊長)

2023-08-13 01:45:32 | コラムと名言

◎全員ヲ陛下ノ御下ニ復帰セシム(パラオ照部隊長)

 藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)から、「大局は動かず」の章を紹介している。本日は、その四回目。

 かうした諸事件のなかでも、いはば終戦前夜の喜劇とも見られるのは、東部軍管下の一小部隊がとつた行動である。
 彼等は玉音の御放送が行はれては一大事であると考へ、それを阻止するには東京放送局の鳩ケ谷〈ハトガヤ〉、越ケ谷〈コシガヤ〉、新郷〈シンゴウ〉の三送信〔所〕を押へればその目的を達すると考へ、十五日午前その三ケ所に闖入〈チンニュウ〉し、その二ケ所を押へることに成功したのであつたが、他の一ケ所では局員の頓智で、いま停電中で送信は出来ないから大丈夫だといはれ、科学知識の欠如からその真偽が判らず、而もその一ケ所さへ送信所が生きてゐれば送信は可能であることをも知ちぬまゝ約十二時間を経過、結局そのため玉音の御放送は何の差支へもなく行はれたのであつた。
 以上の如き内地部隊の態度に比して全般的に立派だつたといへるのは外地部隊の状況だつたといへる。その一例をパラオ照部隊長が中央に打電して来た電文によつて紹介しておかう。以下はその電文である。
『曩ニ〈さきに〉非常ノ大詔渙発セラレ停戦ノ大命ヲ拝ス。痛恨断腸全パラオ地区ヲ覆フ。然リト雖モツクヅク惟フニ皆我等一億ノ禊祓〈みそぎはらえ〉足ラザルニ因ル。更ニ我等将兵ノ戦力発揮未熟ナリシニ起因ス。ペリリユー、アンガウルノ将兵ハ克ク戦ヒタリト雖モ遂ニ之ヲ敵手ニ委ネタル等全ク我等ノ罪死以上ニ値ス。誠ニ恐懼〈きょうく〉ノ極なり。今停戦ノ大命ヲ拝セントシ万死飽ク迄鬼畜ヲ鏖殺〈おうさつ〉セズンバ止マザルノ烈々タル闘魂封ジ難ク之ガ為武人トシテノ去就ニ関シ意見ナキニアラザルモ従容自若〈しょうようじじゃく〉儼乎〈げんこ〉トシテ大義明分ニ就カントス。須カラク〈すべからく〉私心我見ヲ去リ有ユル感情ヲモ擲チ〈なげうち〉テ只管〈ひたすら〉天皇陛下ノ御命令ノ間ニ間ニ〈まにまに〉随順シ奉ル。之以外ニ大義明分ナク臣道実践モ亦ナカルベシ。茲ニ承詔必謹〈しょうしょうひっきん〉大命下リ次第直チニ隸下全将兵ニ停戦ヲ命ゼルト共ニ大命トアラパ内ニ血涙ヲ堪エ長恨ヲ吞ミツツモ矛〈ほこ〉ヲ捨テシメ而モ兵一員ヲモ剰サズ全員ヲ陛下ノ御下ニ復帰セシムルコトコソ先ヅ第一ニ行ズ〈ぎょうず〉ベキ真乎ノ忠節ナリトノ決意ヲ固メタリ』
 これらの動揺のまつたゞなかにあつて、最も注目されるのは、陸軍中央部であるところの参謀本部、陸軍省の中堅将校の思想或ひはその動向であらう。
 そしてそれは阿南〔惟幾〕陸相の動向と密接な関係があるのである。【以下、次回】

 これによれば、8月15日の午前、東京放送局の鳩ヶ谷、越谷、新郷の各送信所を襲った小部隊があったという。しかし、著者は、その小部隊の名前を記していない。また、小部隊による制圧を免れたのが、どの送信所だったかも明らかにしていない。おそらく著者は、当該小部隊および当該送信所の関係者を意識し、あえて、それらを伏せたのではないだろうか。
 また、後半に「パラオ照部隊長」が発した電文が引用されているが、この「パラオ照部隊」とは、パラオ諸島に派遣されていた第十四師団(照兵団)のことである。だとすれば、この電文を発したのは、第十四師団の最後の師団長・井上貞衛(さだえ)中将ということになろう。

今日の名言 2013・8・13

◎兵一員ヲモ剰サズ全員ヲ陛下ノ御下ニ復帰セシム

「非常ノ大詔」を受けて、「パラオ照部隊長」が中央に発した電文中の言葉。「御下」の読みは、たぶん、「おんもと」。「パラオ照部隊長」は、第十四師団の最後の師団長・井上貞衛と推察される。

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無条件降伏は皇国を滅亡に導く(佐々木武雄)

2023-08-12 01:17:27 | コラムと名言

◎無条件降伏は皇国を滅亡に導く(佐々木武雄)

 藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)から、「大局は動かず」の章を紹介している。本日は、その三回目。

 これらよりも、十五日払暁〈フツギョウ〉、学生を使唆〈シサ〉して機銃掃射、放火等によつて、鈴木〔貫太郎〕首相官邸及び私邸、平沼〔騏一郎〕枢府議長邸を連続襲撃した、東京警備軍の佐々木武雄大尉一味の事件の方が、暴発的行為とはいひながら、軍人の狷介〈ケンカイ〉なものの見方とそれに最初は強要されつゝも最後は共鳴してしまつた国民の一部が、如何ともすべからざる大勢に抗してまでも我意を張らんとした姿が如実に現はれてをり、むしろ我等としては注目すべきであらう。
 横浜工業専門学校三年生村中諭、同上田雅紹、同石井孝一、同尾崎喜男、東京工業大学一年生川崎吾郎、筏〈イカダ〉回漕業豊組現場監督福田軍男、横浜機甲隊指導員山口倉吉等はいづれも前橫浜工業専門学校長鈴木達治氏の主宰する「必勝懇談会」の幹部だつたが、かねて東京警備軍第三旅団隸下旭部隊横浜隊所属の佐々木武雄大尉の講説を聴いて戦局の前途を憂慮してゐたところ、偶々〈タマタマ〉終戦の大詔が玉音放送せられるその前夜、八月十四日に佐々木大尉より日本の無条件降伏は皇国を滅亡に導くものであり、これを挽回するためには斯くあらしめた鈴木首相及び重臣等を打倒する非常手段に訴へで皇国の降伏を阻止し、陸軍を主軸とする武断派内閣を樹立して徹底抗戦をするよりほかないのであるといふ勧説を受けて共鳴、彼等は佐々木大尉よりそれぞれ武器を受けとつてその実行に参加し、十五日午前四時二十分一同は山口の操縦する軍用トラツクに同乗して麹町区永田町の首相官邱を襲撃したが、鈴木首相不在のためその目的を果さず、直ちに小石川区丸山町〈マルヤマチョウ〉四〇の私邸に向つた。こゝで先着の佐々木大尉とその部下将兵約二十名がボロと重油によつて放火しつゝあつたのに協力してこれを全焼せしめ、更に鈴木首相を暗殺せんと探し求めたがそれも果し得ず、同四時四十七分一同は更に淀橋区西大久保一ノ四二の平沼枢府議長邸に向ひ、鈴木首相邸と同様の行動に出たが、遂に当局の捕縛するところとなつたのである。【以下、次回】

 東宝映画『日本のいちばん長い日』(1967)では、天本英世(あまもと・ひでよ、1926~2003)が、佐々木武雄大尉に扮していた。鬼気迫る怪演であった。

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