◎我が陸軍も遂に姿を消すに至つた(藤本弘道)
藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)から、最終章の「市ケ谷台上の嵐」を紹介する。
市 ケ 谷 台 上 の 嵐
斯くて畏き〈カシコキ〉あたりには、陸軍大将朝香宮鳩彦王(アサカノミヤ・ヤスヒコオウ)殿下を支那に、陸軍少将閑院宮春仁王(カンインノミヤ・ハルヒトオウ)殿下を南方に、陸軍中佐竹田宮恒徳王(タケダノミヤ・ツネヨシオウ)殿下を満洲に御特派、各陸軍最高指揮官に対し夫々聖旨及び停戦に関する大命を伝達せしめられた。そして河邊虎四郎(かわべ・とらしろう)陸軍中将は八月十九日全権委員としてマニラに到着所要の会談をとげ、九月二日帝国降伏の詔書は渙発せられ、東京湾上のミゾリー〔Missouri〕艦上に於いて降伏調印が行はれ、一般命令第一号が発せられた。
これより先八月十七日、畏きあたりに於かせられては陸海軍人に対し誠忠遺烈を御嘉尚〈ゴカショウ〉あらせられたる勅語を賜ひ、帝国陸海軍の闘魂尚〈ナオ〉烈々たるにも拘はらず、國體護持のため和を媾ずるに至りたる意を体し、軍人たるものは鞏固なる団結を堅持し、出処進止を闡明〈センメイ〉にし千辛万苦に克ち、忍び難きを忍んで国家永年の礎を遺すべきを御諭しあそばされたが、更に同二十六日には更に陸海軍に勅諭を賜ひ、重ねて多年の誠忠を御嘉尚あらせられ、干戈を収めて兵を解くに方り〈アタリ〉復員に有終の美を済し〈ナシ〉、戦後復興に力を致すべきことを御垂示あらせられた。
その後陸軍としてはこの畏き勅語、勅諭を奉じて復員に、諸機関整備に、武装解除に平静として進んで行つたが、中央部に於いては八月二十四日に田中〔静壱〕東部軍司令官、九月十二日には杉山〔元〕第一総軍司令官、同十四日に第一総軍司令部附吉本貞一〈テイイチ〉大将が相次いで自決して行つた。
九月十三日大本営廃止、十月一日航空総軍司令部廃止、十月十五日参謀本部、教育総監部、第一、第二両総司令部解体、同日全日本軍武装解除完了、内地復員部隊完了、十一月三十日陸軍省、航空本部各廃止。こゝに明治四年二月御親兵の設置によつて創設せられ次第に発展して行つた我が陸軍も遂に姿を消すに至つたが、昭和二十年八月九日より同十五日に至る一週間の時こそ、崩れ行く陸軍最後の日として、もつともあわただしかつた一日々々であつた。
冊子『陸軍最後の日』の紹介は、以上で終える。
同冊子の最終ページは、64ページだが、最終章「市ケ谷台上の嵐」の最後の文章は、同ページにまで及んでおり、その余白部分に、「奥付」がある。すなわち、同冊子の64ページは、本文の最終ページ、奥付、裏表紙の三者を兼ねている。
なお、8月1日に指摘した通り、同冊子には綴じられた形跡がない。おそらく、同冊子は、両面印刷したA3判相当の用紙8枚を重ね(各枚、表裏で8ページ)、それを四つ折りにしたままの状態で発売されたのではなかろうか(読む際は、ペーパーナイフが手放せなかったことであろう)。