礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

玉音の音盤を奪取して一先づ御放送を中止させ……

2023-08-14 02:54:09 | コラムと名言

◎玉音の音盤を奪取して一先づ御放送を中止させ……

 藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)から、「大局は動かず」の章を紹介している。本日は、その五回目。

 彼等は始めはその一切を梅津〔美治郎〕参謀総長と阿南〔惟幾〕陸相に委せて沈黙の態度を続けて、特に阿南大将の人その手腕を信頼して、彼等の考へだうりになるやうにその善処を希望してゐたのである。
 ところが愈々十四日最後の御前会議が開催され、御聖断が判然と下り、阿南陸相敗れ、梅津参謀総長は温順大勢に従ふの態度を持するに至つた結果を知るに至つて俄然その内部の動揺は激越なものとなつて来た。
 まづその外部に極端に現はれたのはK中佐、S少佐、H少佐を中心とする一団であつた。
 彼等は戦争継続を主張する部内の最急先鋒であつた。 
 彼等は参謀本部、陸軍省軍事課、軍務課の同志とともにこの御聖断を覆へさしめるべく、全陸軍のクーデターを開始すべしと各方面の上司を説服にかかつた。
 然し彼等の出端〈デバナ〉は先づ梅津参謀総長に押えられ、続いて各部局長に説得せられ、特に吉積〔正雄〕軍務局長から彼が整備局長兼任の立場から経済的方面からの継戦不可能なる理由を教示せられ、大きな団体として事を起すには不可能な立場になつた。
 しかも痛憤止み難きS少佐、H少佐は、市ケ谷台上に人無しとして、腹心の青年将校二、三名と語り合ひ、十五日午前一時ごろ近衛師団司令部を強襲、遂に宮城を侵犯し奉るの不祥事を惹起させる結果となつた。
 S少佐、H少佐等の一団は近衛師団司令部を強襲して師団長森赳〈モリ・タケシ〉中将に面会し、彼等の所信遂行に協力を要請した。
 彼等の所信とは何か。
 これも亦前述せるが如き國體護持観の相異から来るものであつた。
 そしてその國體護持観の上に立つとき、天皇の上に他の力が加はる場合は絶対に不可能であつて、この他の力を排除するものが皇軍の力であり、皇軍の住務は其処にあつたのであるから、天皇親政に非ずして國體護持があり得ざる以上、結果として皇軍の全面的武装解除によつて國體護持が出来ないことは当然であると彼等は考へ、ポツダム宣言を受諾すること自体が國體護持が出来ぬとし、陸軍はこの場合にはむしろ一億玉砕するに如かず〈シカズ〉といふ態度をとるべきであると説き、而も陸軍は一億玉砕の覚悟を以て敵を本土にむかへるときは、五百万の主力を持つ兵力が健在にして、飛機また数千機があり、特攻隊員も数万あり、辺土に至るせで築城は堅固を加へある現況から絶対最後の勝利を得ると簡単に確信してゐたのである。
 然るに朝議は一決して降伏と決定し、皇軍は國體護持の不安を有ちつゝ全軍武装解除の忍苦を受けんとしてゐるといふ状態になり、皇統が続き、皇位が存続することが國體護持であつて、これに外力が加はつて親政に不安があらうともそれはさしたる問題でないとするのみか、その主旨のもとに陛下を説き参らせて国民に降伏の事態を正当化して提示せんとする挙に出てゐることは奇怪至極であると彼等は考へるのである。
 そして、王音を放送申上げるといふことは陛下の御発意によるものとはいへ、玉音を直接国民の耳に聞かさねば承知出来ないのであらうといふ情勢に立ち至らしめたことは、それ事態健全な政治ではなかつた、無理以上無理な御政道を行はしめ奉らざるを得なかつたといふこと、即ち輔弼〈ホヒツ〉の実務を背ふ者としては死を以て諫止申上げねばならぬやうなことを聖上に行はせ申したといふ重大な責めがあるのである。而もこの第一の重大なる失策は、第二、第三と無理を重ね、度々陛下の御力にすがり参らせねばならぬ結果となつて、国民をしてむしろお上を恨ましめるといふ誠に寒心にたえぬ将来が出来ぬとも限らぬ。それのみか、玉音の御放送があると知つたとき、国民の大半以上、否その殆ど全部が一億玉砕せよと仰せられることであらうと考へてゐるといふ事実を何と解釈したらよいであらう。
 楠公が湊川に玉砕した恨みは藤原清忠、足利尊氏に向けられ、維新開国の恨みは井伊直弼に向けられた如く、今回の結果は降伏を断行せる所謂非戦派巨頭に向けられ、而も明治維新後、開国の結果は、佐賀の乱、熊本の乱、秋月の乱、萩の乱と小乱を重ねて西南の役にまで至つたと同様の結果が起らないとも限らない。
 さう考へるが故に、彼等はそのすべてを未然にふせぎ、彼等の正道と考へる道に大勢進めねばならぬ手段として、先づその前夜宮中で録音せられた玉音の音盤を奪取して一先づ御放送を中止させ、然るのちに側近を説いて事を運ぶため、近衛師団はクーデターに参加してくれと師団長に説いたのである。
 勿論、森〔赳〕中将は既に大命の下つたその時に於いてこれを受諾することはなかつた。
 激情にかられた彼等は師団長を拳銃で射殺し、当直参謀を一室に監禁し、偽師団命令を発して、宮城を守護し奉る宮護部隊を動員して城内衛兵本部を中心に宮城を占拠、蓮沼〔蕃〕侍従武官長、加藤〔進〕宮内省総務局長等を監禁、宮内省、内大臣府等と外部との連絡を遮断、その前夜宮城内で録音せられ、下村〔宏〕情報局総裁が保管してゐる筈の玉音御放送の音盤を奪取せんものと、下村情報局総裁、木戸〔幸一〕内府、石渡〔荘太郎〕宮相、大金〔益次郎〕次官等の行方を求めたのであつた。
 然し、宮護部隊の非常動員に比較的時間をとり、近衛師団長射殺の急報にかけつけた田中〔静壱〕東部軍司令官の説得にあつて、その目的を果すことを得ず、S少佐、H少佐以下幹部四名はその場で自決を遂げてしまつた。【以下、次回】

 文中、「K中佐、S少佐、H少佐」とあるが、S少佐は椎崎二郎陸軍中佐を指し、H少佐は畑中健二陸軍少佐を指すものと思われる。K中佐は、井田正孝陸軍中佐を指しているようだが、ハッキリしない。

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