礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東郷茂徳の手記(1967年2月)を読む

2023-08-28 03:43:39 | コラムと名言

◎東郷茂徳の手記(1967年2月)を読む

 今月17日から21日にかけて、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介した。今井清一編『敗戦前後』〔ドキュメント昭和史・5〕(平凡社、1975)に収録されていたものを引いた。初出は、雑誌『世界』の1951年8月号だという。
 実は、この『敗戦前後』には、東郷茂徳(とうごう・しげのり)の「八月十二日より十六日まで」という文章も収録されていた。この文章は、『東郷茂徳外交手記』(原書房、1967年2月)の一部だという。
 本日以降、この「八月十二日より十六日まで」を紹介してみたい。

 八月十二日より十六日まで  東 郷 茂 徳

 十二日早朝〔松本俊一〕外務次官等が辞去した後、自分は直ちに〔鈴木貫太郎〕総理を訪問して先方の回答を伝えた後、午前十一時に参内して回答の趣旨及びこれに対する措置振りに付いて上奏した。陛下は先方回答の通りでいいと思うからそのまま応諾するように取運ぶがいいだろうとの御言葉で、総理にもその趣旨を伝えるようにと仰せられた。よって直ちに首相官邸に赴き、右の事情を報告して打合せをなし居る最中に平沼〔騏一郎〕男が来訪せられて、右回答中の第二項及び第四項に付きて異存ある旨を述べられたので、自分は後に記載する閣議における陳述と同趣旨のことを簡約して述べて退出したが、総理はその以前〔阿南惟幾〕陸軍大臣からも「バーンズ」回答不十分との話しを受けたらしかった。日本の国体又は皇室の問題は「ソ」支では強硬な反対意見があることは明瞭であったが、米でも先年の不戦条約批准当時の経緯でも分る如く中々了解しないばかりでなく非常に機微の点があるのでその取扱は中々面倒であった。
 午後三時に臨時閣議が開催せられ「バーンズ」回答に付いて審議を重ねた。先ず自分は右回答は満足のものとは云い得ないが、我が方から天皇の統治権の問題を持ち出したから占領中は日本側の統治権能が無制限に行わるる訳ではなく「ポツダム」宣言の条件を実施するためには連合国最高司令官の権限が日本側のそれよりも上にあることを指摘して来たのである、すなわち保障占領の下においては降伏条件実施の枠内においては統治権に制限があるのは致方〈イタシカタ〉ないことであるが、原則的には天皇の地位は儼存するのである、第二項は天皇が降伏条件に掲ぐる条項を実施せらるる義務あることを指摘して来たのである、第三の捕虜輸送の問題及び第五の占領期間の問題はいずれも当然であって特に説明する必要はないと思うが問題は第四点である、国民の自由意思により政府の形態を決定する考え方は大西洋憲章にも記載せられて居り、「ポツダム」宣言も同様の趣旨に出て居るものである、すなわち日本の国体は日本人自身が決定ずべき問題であること、又従って外部よりこれに干渉すべからずとの意味である、又もし先方で人民投票の方法によって決定する意図であるにしても、日本人の忠誠心に照しごく少数のものを別とし大多数は我が国体の大本を変更せんとする考えを抱くものとは信ぜられぬ、他方各種の情報によれぱ連合国側の一部においては皇室問題に付いても強硬意見があるが、英米当路者が「バーンズ」回答案の程度に止めた模様と見える、先方の回答に付いて字句の修正を求めても往年の不戦条約批准前に修正を求めてその目的を達しなかったと同様、我が方の趣旨を貫撤し得ざる結果となる虞【おそ】れがあり、かつ又あくまでこの点に関する交渉を押進めんとする場合には、先方諸国における強硬派に口実を与え皇室否認の要求さえ提出せられずとは限らず、かくて遂に決裂を見るべき覚悟を要する処、八月九日御前会議決定の根本、すなわち戦争を継続することが不可能かつ不得策なりとの見地よりして本件交渉はこの辺にて取纏むることを必要と認むと述べた。
 これに対し陸軍大臣は天皇が連合国最高司令官の権限に従属すと記載せること、並びに日本政府の最終的形態を日本国民の意思により決定すとせることの不都合を挙げて先方回答は不満足であると述べ、他の二、三閣僚から日本の国体は神代の時代から決って居るので国民の意思によって決定せらるるのではないとか、武装解除の強制は帝国軍人にとって忍び得ないことであるから戦争継続の外はないとかの主張が持出された。自分はこれに対しても反駁し、〔米内光政〕海軍大臣は自分を支持したが、この時総理は武装解除を強制せらるるなら戦争継続も致方ないと発言した。これでは面倒な場面になると思ったから自分は先方からの正式回答も未着でありますからそれが到着した上更に審議を重ぬることにしたいと思う旨を述べた。それで翌日審議を継続することにして散会した。
 そこで自分は直ぐ総理の室に入って、今頃武装解除問題を持出す時機にあらざること、先方回答に付き押問答に入るの無益なることを説いて、決裂の覚悟がなければ先方回答をそのまま受諾する外ないが、陛下が戦争継続を欲して居られないのは御承知の通りである、戦争の見透しについては大元帥陛下の意見が基本となるべきは勿論であるが、このたびの問題は皇室の存否にも影響する問題であるからとくと陛下の意図のある所を按ずべきは当然のことである、されば首相及び内閣の意見が戦争継続に傾くが如き場合には単独上奏を致すことがあると御承知を願いたいと述べ、更に木戸〔幸一〕内府を訪ねて右の事情を語った。然るに内府は陛下に重ねて申上ぐるまでもなくその御意図が先方回答をそのまま受諾すべきであることは明瞭であるから、自分から総理には話しすることにしたいとのことであった。そしてその夜木戸君から電話があって、総理に話したところ総理はよく了解されたとのことであった。【以下、次回】

 東郷茂徳(1882~1950)は、鈴木貫太郎内閣の外務大臣。戦後、A級戦犯に指名され、1948年、禁錮20年の判決を受ける。禁錮中の1950年に病死。

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