礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

縁側で血まみれになって前へ伏せていた

2023-08-21 05:26:58 | コラムと名言

◎縁側で血まみれになって前へ伏せていた

 今井清一編『敗戦前後』から、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

 やがて大臣室には、陸軍の首脳者が集まった。入室者は制限された。荒尾〔興功〕軍事課長は活発に動いて「皇軍は最後を清く〈イサギヨク〉せんとす」と書かれた紙に、三長官の捺印をもとめた。阿南さんも、もちろん署名した。その後、臨時閣議に出席し、午後三時からは陸軍省職員にたいし聖断の思召を伝え、これに従うよう訓示した。彼はすっかり平静をとりもどした。あとで知ったのだが、八・一五事件に直接関係した一、二の軍務局課員は、この訓示には集まらなかったとのことである。
 訓示を終ると、阿南さんはさっさと官邸に引揚げて少憩した。東条〔英機〕さん、ついで畑〔俊六〕元帥の来訪があった。東条さんとは主として戦争裁判につき話合い、畑元帥からは「元帥を返上したい」との申し出があったと、私は聞いた。
 夕食後、阿南さんは葉巻の箱をかかえて閣議に臨んだ。葉巻好きの鈴木〔貫太郎〕さんに贈るのだとの話であった。閣議が始まると間もなく彼は出てきて、辞表の書式や手続きを調べてくれと、私に言った。それらを内閣の総務課長にたずねた時、「明十五日正午ごろ総辞職の予定だ」との話も聞いた。ついで午後十時ごろ、また彼は出てきて、今度は陸軍省に行きたいといった。陸軍省へ行く途中、彼は机のまわりを一人で片付けはじめた。そのあとで竹下〔正彦〕中佐を呼んだが、彼は何処かへ行っていなかった。そこで阿南さんは、再び閣議に出かけたが、閣議室に入る直前、半紙二枚を準備してくれと私に頼んだ。私は、自決が近いと直感した。
 そのころまで、彼は自決を急がないだろうと、私は思っていた。なぜならば、十二日に竹下中佐が「切腹勧告」をやった後、彼と私は自決につきしばらく話し合った際、「降伏は必至だろう。陸軍大臣としては停戦と復員とに最大の努力を払うべきである。その見透しがついてから自決しても遅くはない」との私の主張に、彼が心から同意したように私は思いこんでいたからである。
 閣議が終ると、彼は刀をつり、白手袋をはめて総理室に入り、何か挨拶の箱を鈴木さんに手渡した。総理にたいする最後のお別れであった。それから官邸に帰ったが、午後十一時三十分ごろだったと記憶する。私は、玄関先きで半紙二枚を渡し、丁寧に敬礼して自分の官舎に帰った。十五日の午前四時やや過ぎ、枕元の電話がけたたましくなったので目をさました。「偽命令が出され、近衛師団の部隊が宮城につめかけている」との陸軍省からの知らせであった。
 報告のため、すぐ陸相官邸に赴いた。玄関にはいると阿南さんの大きな話声が洩れてきた。珍しいことだ、と私は思った。座敷には彼の前に竹下中佐と井田〔正孝〕中佐が座っていた。一瞥したところ、井田中佐が何か諭されているように見えた。阿南さんは真白なワイシャツ姿、勲章で一杯の上着は、床の間においてある。机の上には、お膳と何か書かれた二枚の紙がならんでいた。私が報告すると、竹下中佐は「クーデターは失敗に終った。東部軍が動かない」旨を説明してくれた。また竹下中佐は「腹を切る前、酒を少しのむ方が血がよくでるので、大臣は少しばかり飲まれたのだ」ともいい足した。
 私には、別に彼の自決をとめようとの気は少しも起こらなかった。しかし、何ともいいようもない複雑な気持に襲われた。また具合の悪いところに入ってきたものだと、少しく後悔しはじめた。ところが阿南さんから「君はあちらに行っておれ」といわれたのを幸いに、すぐ座を外し、その足で偕行社の若松〔只一〕次官の許に急行した。途中、英国大使館の前あたりで、近衛部隊の約一コ中隊が隊列を長くのばしながら、気の抜けたような恰好で行進しているのにぶつかった。偕行社から若松次官の跡を追い、すぐ陸軍省に廻った。
 陸軍省からは、那須〔義雄〕兵務局長と一緒に陸相官邸に戻った。午前五時やや前で、外はもうかなり明るかった。応接室には大城戸〔三治〕憲兵司令官と竹下中佐とが話していた。 すぐに奥座敷に駆けつけてみると、阿南さんは縁側で血まみれになって前へ伏せていた。そして「誰だ」と大喝した。
 遺書は二つあった。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という方は陸軍大臣阿南惟幾と署名し、その傍に「神州不滅ヲ確信シツツ」と書いてあった。もう一つは「大君の深き恵にあみし身は、言い遺すべき片言もなし」とあり、陸軍大将惟幾と署名してあった。陸軍大臣と陸軍大将との立場をはっきり使いわけてあった。日付は両方とも昭和二十年八月十四日夜となっていた。十四日は、たしか少尉任官早々中支戦線で戦死した二男の命日にあたっていたと記憶する。阿南さんは非常な子煩悩であった。彼が十四日夜に自決した一つの理由、ここにあると思う。
      林三郎「終戦ごろの阿南さん」
      (『世界』昭和二十六年八月)

 最後にあるように、林三郎「終戦ごろの阿南さん」の初出は、雑誌『世界』1951年8月号である。ただし、今井清一編『敗戦前後』に収録されているものは、その全文ではなく、何か所か、割愛されているところがあるようだ(後者で、〈……〉となっているところ)。
 明日は、一昨日の記事について、補足をおこなう。

*このブログの人気記事 2023・8・21(8位になぜか佐藤義亮、9位になぜか伊藤博文)

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飛行機からのビラが、天皇をそうさせた(林三郎)

2023-08-20 01:31:47 | コラムと名言

◎飛行機からのビラが、天皇をそうさせた(林三郎)

 今井清一編『敗戦前後』から、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介している。本日は、その四回目。
 
 八月十四日の早朝、米軍飛行機は東京その他の都市に多数のビラを撒きちらした。ビラには日本語で、ポツダム宣言受諾にかんする日本政府の申入れと、連合国側の回答とが印刷されてあった。政府は狼狽した。今まで隠していたことが暴露されたからである。
 阿南さんが頼みにしていた畑元帥は、米軍飛行機の頻繁な来襲のため、十三日には来れず、やっと十四日の朝に着京した。その上、着京後の元帥の行動も、彼の期待外れとなった。天皇が先手をうち、午前十時に杉山、畑、永野〔修身〕の三元帥を宮中に召されたからである。そして天皇は降伏の決心を固めた旨を述べ、軍がこれに服従するよう要求された。
 一方、阿南さんは他の大臣とともに、午前十時開会予定の閣議のため、総理官邸に集まっていた。ところが急に予定が変更され、そのままの服装で、すぐに宮中に参集ということになった。全閣僚のほか、両軍の総長、〔平沼騏一郎〕枢密院議長、最高戦争指導会議幹事も召された。天皇自らの発意にもとづく御前会議の召集である。このような召集は、今回が最初である。これまでは、いつも総理と両軍総長の共同奏請にもとづき召集されていたのである。飛行機からまき散らされたビラが、天皇をそうさせた。軍隊や国民が、和平交渉を知って騒ぎ立てる前に、聖断を下してしまおうという意図だったのである。
 御前会議では総理は〔梅津美治郎〕参謀総長、〔豊田副武〕軍令部総長、陸軍大臣の順序に意見を述べさせた。この三人の意見は大体同じ趣旨のもので、連合国の回答によると国体の護持がむずかしそうであるから、今一度問合わすべきであり、もしも、その保証がえられなければむしろ戦争を続けた方がよいというのであった。だが、結局、重苦しい空気のうちに、遂に降伏にかんする聖断が下された。時に正午であった。
 御前会議から出てきた阿南さんは、平素と少しも違った様子はなく、いつもの温顔にゆったりした物腰であった。そして、その足で総理官邸に赴き、他の大臣と一緒に昼食をとった。昼食後、彼は階下の便所で小用を足しながら、しばらく考えこんでいた。それから真剣な面持で「東京湾の近くに来ている上陸船団に打撃を与えてから、和平に入る案はどう思うか」と、小さな声で私に尋ねた。この思いがけない質問に、私は驚いた。彼には、聖断がすぐに呑みこめなかったらしい。私は「第一に聖断が下った以上、これに従うべきである。第二に上陸船団にかんする情報をしばしば聞くが、どこからもまだ確認の報告は一つもきていないから、そのような重大な決心の対象にはならない」旨を述べた。彼は、ただ私の顔を見つめながら聞いていた。
 この上陸船団にかんする情報は、そのころ、確かに陸軍中央部内に言いふらされていた。聖断の下った十四日の夜、市ガ谷台の警備憲兵や衛兵が集団逃亡したのは、この船団があすにでも上陸してくるとの噂に、脅えたったためであった。クーデターを計画した将校や八・一五事件を起こした将校も、この噂を信じていた。彼らは、米国は強力な上陸船団を背景にして、日本に無条件降伏を強要しており、その船団の上陸は極めて近い将来に違いないと判断していた。しかし判断の基礎は確認された情報ではなく、単なる噂にすぎない。その噂がたびたび言いふらされているうちに彼らはいつのまにか、それを信じてしまった。そして、このような米軍の上陸が極めて近いとの判断から、彼らに大打撃を与えることにより無条件降伏を緩和させることができようと、考えたのである。〈……〉

 8月14日、昭和天皇の発意による御前会議が召集された。林三郎によれば、同日早朝、米軍機によって撒かれたビラが、昭和天皇をして、御前会議の召集を決断させたという。この件については、のちほど、若干の補足をおこないたい。

*このブログの人気記事 2023・8・20

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陛下を擁して聖慮の変更を奏請する(荒尾軍事課長)

2023-08-19 01:59:43 | コラムと名言

◎陛下を擁して聖慮の変更を奏請する(荒尾軍事課長)

 今井清一編『敗戦前後』から、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介している。本日は、その三回目。
 昨日、紹介した部分のあと、一行あけ、次のように続く。

 八月十三日の朝、何かの話のついでに「梅津さんはクーデターには絶対反対だそうだ」と、阿南さんは小声で私に語った。クーデターという言莱を、彼から聞いたのはこの時が最初である。どこからか、そのような情報を入手したものらしい。ところが午後にはちょっと心配そうな面持〈オモモチ〉で「どうも西郷さん〔西郷隆盛〕のようにかつがれそうだ」とささやいた。この言葉も、全く私には意外であった。今まで私は、朝から晩まで彼の側〈ソバ〉についていたので、大抵のことは知っているつもりであったが、この日まで彼がクーデターに深い関心を寄せているとは気がつかなかった。燈台もと暗しだったのかもわからない。それはそれとして、とにかく、彼がかつがれそうなのをひどく苦悩していることが、私には初めてわかった。
 十三日の夜は特に蒸し署かった。永田町界隈は、四月二十五日の爆撃で一面の焼野原と化し真暗であった。人通りもほとんどなかった。十時ごろ焼け残りの高級副官官舎――仮りの陸相官邸――に数人将校がたずねて来た。荒尾〔興功〕軍事課長のほか五名の軍務局課員が、クーデター計画につき大臣の承認を受けにきたのである。荒尾大佐は、低い声で簡単に来意を説明し、一枚の紙を大臣の前に差し出した。
 その紙をじっとみてから、大臣はおもむろに「通信の計画はどうなっている」と尋ねた。はっきりした返答はなかった。その後、簡単な一、二の問答があったが、彼はその場では諾否を明らかにせず「今夜の十二時に陸軍大臣室で荒尾大佐に返事をする」と言った。かくして会談は僅か十分足らずで終ってしまった。帰りがけ荒尾大佐は「課員の熱意には、どうしようもない」旨を私に述べ、自分の立場を弁明した。
 クーデターの計画は大要つぎのようなものであった。
一 日本の希望する条件を連合国側が容認するまで、交渉を継続するよう御裁下を仰ぐを目的とする。
二 使用兵力は近衛第一師団および東部軍管区の諸部隊と予定する。
三 東京都を戒厳令下におき、要人を保護し、陛下を擁して聖慮の変更を奏請する。
四 陸軍大臣、参謀総長、東部軍管区司令官、近衛第一師団長の全員同意を前提とする。
 彼らは別に即答を求めず、おとなしく引揚げた。そのあと、阿南さんは私に「横で聞いていてどんな感じを持ったか」と尋ねた。何か気になることがあったようである。私は率直に、「恐らく彼らはクーデターにたいし、大臣は内心賛成のようだと印象をうけて帰ったろう」と言った。更に私は、国民の協力のない本土作戦は成功の可能性が先ずなかろうと縷々【るる】のべた。彼はただ黙って聞いているばかりであった。
 暫くしてから、彼は市ガ谷台へ出かけた。自動車の中では終始何かを考えていた。ちょうど夜中の十二時、彼は大臣室で荒尾大佐に返事をした。返事は間接的な否定であった。簡明直截に「いけない」とは言わず、クーデターに訴えては国民の協力が得られないから、本土の作戦は至難になろうとの意味のことを言ったのである。荒尾大佐は改めてクーデターの断行を力説しようとは試みなかった。かくして約束の返事は、非常にあっさり終った。帰りの自動車が走り出すと、すぐに彼は「自分がクーデターに不同意なことを、荒尾は了解してくれただろうね」と尋ねた。返事の仕方に、彼は苦心したらしい。私が「多分了解したでしょう」と答えたら、彼は満足のようであった。〈……〉【以下、次回】

*このブログの人気記事 2023・8・19(9位になぜか赤い腰巻)

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ポツダム宣言の受諾は有力な一案だ(梅津参謀総長)

2023-08-18 00:06:29 | コラムと名言

◎ポツダム宣言の受諾は有力な一案だ(梅津参謀総長)

 今井清一編『敗戦前後』から、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 八月十三日の午前四時少しまえ、大臣護衛の憲兵が私を呼びにきた。阿南さんはすでに軍服をきて庭の芝生に立ち、何かを冥想していた。「陛下に御翻意していただく方法をいろいろ考えたが、結局、陛下の御信任あつい畑〔俊六〕元帥から陸軍の総意を上奏して貰う以外には、もう方法がない。東京には杉山〔元〕元帥がおられるが、御信任がない」と前置きし、〔梅津美治郎〕参謀総長にこの旨を伝え、もし総長に異存がなかったら、すぐに迎えの飛行機を広島に出すように、と命じた。私はすぐに参謀総長の宿舎をたずねた。梅津さんは「ポツダム宣言の受諾は非常に有力な一案だと、自分個人では考えている。しかし大臣の最後的な努力には異存がない」と、例の荘重な口調で語った。話を聞きながら、梅津さんの考えは、阿南さんのそれとは少し違うように、私は直感した。ひとしくポツダム宣言に条件をつけるべきだとの論者であったが、梅津さんの方が、先きをよく見透し、考えの幅が広いような印象をうけた。
 午前七時三十分、阿南さんは畑元帥上京の件を上奏した。そのついでに木戸〔幸一〕内大臣に会い、連合国回答の第四項、すなわち最終的な日本国政府の形態決定にかんする件につき反対意見を述べた。この会談の直後、自動車の中で「木戸さんの決心は固い。また軍にたいする反感も強い。軍だけが深い防空壕に入り国民は裸にされていると、軍を非難した」と内大臣について語った。
 陸軍省に帰ると、彼は疲労恢復の注射をすぐにうった。少憩の後、午前九時から例の六人会議に出席した。連合国回答の検討をめぐって、やはり三対三の対立となった。総理の動揺は鎮まり、もとの意見にもどった。阿南さんと両軍総長の三人は、第一項の天皇の権限が連合軍最高司令官の制限の下に置かれることは考えられないこと、特に第四項の最終的な日本国政府の形態が日本国民の自由に表明する意志によって決定するといっても、占領国によって強制的に誘導される恐れが多分にあること等の理由から、天皇の身分保証につきなんら疑念をさしはさむ余地のなくなるまで交渉を統けるべきだと強調した。他の三人、すなわち総理、外相、〔米内光政〕海相は、第一項でいう天皇の権限にたいする制限は、ただ降伏条件の履行という範囲内のものであること、第四項の最終的な日本国政府の形態の決定にあたっては、日本国民が連合国から圧力を加えられないための含蓄ある保証とみなされること等の解釈から連合国回答の受諾を主張した。そして討議は、いずれの側からも歩みよりがなく、午後三時までずっと続いた。
 討議の舞台は、午後四時から開かれた閣議に移った。劈頭【へきとう】、総理は連合国回答にたいする各閣僚の率直な意見を求めた。その結果は受諾賛成案が多数であった。しかし阿南さんの所信には変化がなく、天皇の身分保証を確めるのほか、日本軍自らの手で武装解除を行うこと、占領軍の本土占領を最小限度にすることの二条件をもつけ加えるよう強調した。かくして閣議もまとまらぬまま午後七時三十分ごろ散会となった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2023・8・18

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林三郎「終戦ごろの阿南さん」(1951)を読む

2023-08-17 03:03:53 | コラムと名言

◎林三郎「終戦ごろの阿南さん」(1951)を読む

 似たような話が続いて申し訳ないが、本日以降、しばらく、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介してみたい。この文章は、今井清一編『敗戦前後』〔ドキュメント昭和史・5〕(平凡社、1975)に収録されていたものだが、初出は1951年だという。
 林三郎(1904~1998)は、終戦時に阿南惟幾陸軍大臣の秘書官を務めていたことで知られる軍人、軍事評論家である。

   終戦ごろの阿南さん       林 三 郎

〈……〉八月十二日の早朝、日本政府の要請にたいする米国側の回答が放送された。それによると、天皇の地位にかんする日本政府の唯一の留保条件には首及していない。そのため軍中央部の空気は一段と硬化し、午前八時二十分には両軍総長が揃って参内した。そして、天皇を連合軍最高司令官の意志に従属せしめんとする条件は日本を属国化するに等しく、陸海軍ともに平然としてはいられない旨を述べ、この際、連合国の条件を拒否されたいと奏上した。
 一方、陸軍では中、少佐が騒ぎ出した。すなわち午前十時ごろ十数名の中、少佐が大臣室にやってき、竹下〔正彦〕中佐が一同を代表してポツダム宣言受諾を阻止すべきであると、興奮しきった口調で述べた。そして「もしも阻止できなければ、大臣は切腹すべきである」とまで激しく詰め寄った。座は一瞬しーんとした。同席の若松〔只一〕次官は竹下中佐の言葉を強く抑えた。阿南〔惟幾〕さんは別に意見を述べようとはせず、他用があるとてすぐに部屋を出た。彼は自動車にのると、いつもはすぐに話しだすのだが、この時ばかりは沈痛な面持ちで、しばし無言であった。自動車が市ガ谷駅の横をすぎ麹町三丁目あたりにさしかかったころ、漸く低い声で「竹下はひどいことを言う奴だ。腹を切れとまで言わなくてもよさそうなのに。自分のような年輩になると、腹を切ることは左程むずかしくない」と話しだした。竹下中佐の言葉は、よほど強くこたえたようであった。
 官邸で少憩の後、彼は午前十一時三十分に鈴木〔貫太郎〕総理を訪ね、連合国の回答を無視するよう説得した。午後には一時から閣僚懇談会に出席した。席上先ず〔東郷茂徳〕外相が米国側の回答文を報告し、説明を付け加えた。その説明によれば、天皇の身分を明らかにすることを更に要求し、あるいは留保条件をふやすことは日本が交渉決裂をもくろむ証拠とみなされる危険がある。天皇の身分にかんする規定は曖昧だが、第一項、第二項および第四項において天皇の地位、なさるべきこと、最終的な日本国政府の形態のことが規定されているのは、天皇の地位が変わらずに残るものと解釈すべきであると。これにたいし阿南さんほか一、二の大臣は、そんな勝手な解釈を下すわけにはゆかぬから、今一度照会すべきであると力説した。総理には動揺の色がみえ、連合国の回答にたいする不満を率直に表明した。そして、今までの所信を変えて戦争を続ける以外に途がないと言いだした。議論は正に百出のかたちで午後五時をすぎてもつきない。だが、外相は形勢を不利とみ、正式回答を待つことを提案したので、漸く散会となった。
 この間、陸軍中央部では、日本皇室にかんする米国側放送を丹念に調べた。ニューヨーク・タイムス』紙や、『ヘラルド・トリビューン』紙が皇室廃止論であるというので、これらを印刷して閣議に届けたりした。
 午後八時、阿南さんは三笠宮〔崇仁親王〕邸をたずねた。宮邸といっても焼跡に残った防空壕であった。三笠宮から、天皇に翻意を促していただこうと、彼は考えたのである。会談後の彼は、竹下中佐の「切腹勧告」のあとと同じように、自動車が走り出しても、しばらくは無言であった。官邸に着く少し前になって漸く「三笠宮から陸軍は満州事変いらい大御心〈オオミココロ〉に副わない行動ばかりしてきたとお叱りをうけたが、そんなひどいことをおっしゃられなくてもよいのに」と、ただそれだけを低い声で語った。三笠宮のお叱りも、ひどくこたえたようであった。【以下、次回】

 文中、〈……〉は、『敗戦前後』の編集者によって省略されていることを示す(以下も同じ)。

追記 ここに登場する竹下正彦中佐は、当時、陸軍省軍務局軍務課内政班長。竹下正彦は、陸軍中将・竹下平作の二男であった。竹下平作の二女・綾子は、阿南惟幾に嫁いでいたので、阿南惟幾にとって、竹下正彦は義弟にあたる。このころ、阿南惟幾は、三鷹に住んでいたが、その裏隣りは、竹下正彦邸で、かつ綾子の生家であったという。2017年1月26日のコラム「三鷹の借家の前に阿南惟幾大将の邸宅があった」で、私は、以上のことに触れたが、本年8月17日に、このコラムを書いたときには、そのことを忘れていた。ここに追記する。2023・8・21追記。

*このブログの人気記事 2023・8・17(8・10位に、なぜか2・26事件関係が)

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